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GDx1599 (会話 | 投稿記録)
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== 音楽性 ==
プロデューサーである奥田は、PUFFYがアイドルの様に短期間で消費されてしまう事を嫌い、責任ある姿勢で指導に当たった。二人もまた、こうした彼の人間性とミュージシャンとしてのぬきんでた才能を、「'''先生ちゃん'''」と呼んで慕った。奥田は、個々のボーカルよりも二人の合わさった声に魅力を感じており、歌い方に関しても『自分のビブラートなしの歌い方を勝手に押し付けたわけですから、二人は大変だったんですよ。二人で真っ直ぐ歌えないと駄目なんで。ごまかしがきかない。日本のいわゆる歌姫と呼ばれる人たちに、PUFFYのようにやれって言ってもできないでしょうね。』と語っている<ref>2007年10月4日 [[日経新聞]]</ref>。</br>
奥田はPUFFYが特定の指導者に依って立つ存することを望まず、[[1999年]]のアルバム 『[[FEVER*FEVER]]』では、[[笹路正徳]]にプロデュースを託し、[[2003年]]のアルバム『[[NICE.]]』及び[[2004年]]のミニアルバム『[[59]]』では、[[アンディ・スターマー]]がプロデュースに当たった。特に『[[NICE.]]』では、彼が全曲を作曲した。</br>
デビュー当初、PUFFYは「企画モノ」で終わる心づもりであったため、特に目指すべき方向を持たなかった。その後は人気の下降と共に徐々にアーティスト寄りの方向に進み、『[[NICE.]]』で一つの到達点を示したことで"キャラクターから脱出し、シリアスになりかけた<ref>[[渋谷陽一]]ライナーノーツより</ref>"。しかしそれを阻止したのは、アメリカでの『[[Hi Hi Puffy AmiYumi]]』の成功であり、自身のポップ・キャラクターとしての魅力を再確認させられ、二人のやりたい音楽も明確になった。また、デビュー当時より様々な楽曲の[[カバー]]を行った経験が、ジャンルに括られないバラエティーに富んだ楽曲を器用に歌いこなす、柔軟性が高いPUFFYとしてのスタイルに磨きをかけていった。</br>
『[[Splurge]]』以降は、嘗ての様に複数の作曲者から作品の提供を受け、個々にプロデュースを依頼するといった傾向が続いている。曲の提供は、しばしば奥田やアンディも手掛けるが、アルバムには国内外問わず二人が好きな[[アーティスト]]に[[リクエスト]]し、[[椎名林檎]]や[[斉藤和義]]、[[チバユウスケ]]、[[山中さわお]]などは複数の楽曲を提供している。これほど多くのアーティストから曲提供を受ける歌手は珍しく、また他者に楽曲提供をすることの少ない個性的なアーティスト達も[[クレジット]]に名を連ねるのは、二人のキャラクターの魅力、ジャンルレスに受け入れる寛容さ、柔軟なボーカルセンスの賜物であろう。