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穴山氏系図は確実なものでは穴山氏を単独で扱ったものは見られず、武田宗家系図に包含される。
 
武田系図では[[円光院|円光院武田系図]]のほか近世初頭に成立した系図が存在し<ref>武田家系図については近年系譜資料論の観点から諸系図の資料的性格が検討され、西川広平「武田氏系図の成立」峰岸純夫・[[入間田宣夫]]・白根靖大編『中世武家系図の史料論』(下巻、2007年、高志書院)、西川「南松院所蔵武田氏系図について-武田氏系図成立の一考察-」『山梨県立博物館研究紀要』第二集、2008)がある。</ref>、円光院武田系図では清和源氏・武田氏・[[逸見氏]]の系図に[[足利氏]](室町将軍家・鎌倉公方家)の系図、武田信武以降の信縄までの甲斐武田宗家の系図、信君までの穴山系図、武田庶流[[今井氏]]の系図を組み合わせて武田系図が成立している。円光院武田系図には信虎・信玄・勝頼・信勝の宗家に続いて勝千代を記載した加筆部分があり、このことから円光院武田系図の成立は信君の没年である天正10年から勝千代の没年である天正15年の間に想定されると考えられている。
 
また、[[南松院|南松院武田系図]]は加筆以前の円光院武田系図を元に、信虎以降の武田宗家に勝千代の系譜と穴山氏に関係する詳細な注記を記載して成立したと考えられており、円光院武田系図の加筆部分や南松院武田系図の作成意図から、近世初頭の武田系図は穴山氏の由緒を誇張する意図が存在していたことが指摘されている。