「織田信長」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
m →武田征伐 |
→人柄: 最新の完訳版のものに差し替えさせていただきます |
||
481行目:
=== 人柄 ===
* ''「なかぬなら 殺してしまへ 時鳥([[ホトトギス]])」'' という歌が信長の人柄を表すとして有名であるが、しかしこれは信長作でなく[[松浦清|松浦静山]]『甲子夜話』に収録された当時詠み人知らずで伝わった歌の引用である<ref>[[q:時鳥#川柳]]</ref>。また、この歌の続きには「鳥屋にやれよ…」とあり、戦国時代の武将達に比して江戸の将軍は気骨が無いと批判するもので、信長の性格というよりもその自他を含めた生死を見極める決断力や気概を評価した歌であったようである。
* [[ルイス・フロイス|フロイス]]は信長の人物像を非常に詳細に記している。「彼は中くらいの背丈で、華奢な体躯であり、ヒゲは少なく、はなはだ声は快調で、極度に戦を好み、軍事的修練にいそしみ、名誉心に富み、正義において厳格であった。彼は自らに加えられた侮辱に対しては懲罰せずにはおかなかった。いくつかの事では人情味と慈愛を示した。彼の睡眠時間は短く早朝に起床した。貪欲でなく、はなはだ決断を秘め、戦術に極めて老練で、非常に性急であり、激昂はするが、平素はそうでもなかった。彼はわずかしか、またはほとんど全く家臣の忠言に従わず、一同からきわめて畏敬されていた。酒を飲まず、食を節し、人の扱いにはきわめて率直で、自らの見解に尊大であった。彼は日本のすべての王侯を軽蔑し、下僚に対するように肩の上から彼らに話をした。そして人々は彼に絶対君主に対するように服従した。彼は戦雲が己に背いても心気広闊、忍耐強かった。彼は善き理性と明晰な判断力を有し、神および仏の一切の礼拝、尊崇、並びにあらゆる異教的占卜や迷信的慣習の軽蔑者であった。形だけは当初法華宗に属しているような態度を示したが、顕位に就いて後は尊大に全ての偶像を見下げ、若干の点、禅宗の見解に従い、霊魂の不滅、来世の賞罰などはないと見なした。彼は自邸においてきわめて清潔であり、自己のあらゆることをすこぶる丹念に仕上げ、対談の際、遷延することや、だらだらした前置きを嫌い、ごく卑賎の家来とも親しく話をした。彼が格別愛好したのは著名な茶の湯の器、良馬、刀剣、鷹狩りであり、目前で身分の高い者も低い者も裸体で相撲をとらせることをはなはだ好んだ。なんぴとも武器を携えて彼の前に罷り出ることを許さなかった。彼は少しく憂鬱な面影を有し、困難な企てに着手するに当たっては甚だ大胆不敵で、万事において人々は彼の言葉に服従した。」
* 尾張の僧侶・[[天沢]]は、甲斐を訪れた際に武田信玄に信長の日常の様子を尋ねられ「信長公は毎朝馬に乗られ鷹狩りにもしばしば行きます。また鉄砲を[[橋本一巴]]、弓を[[市川大介]]、兵法を[[平田三位]]に学ばれ稽古をされる。趣味は舞と小唄。清洲の町衆[[松井友閑]]をお召しになり、ご自身でお舞になりますが、敦盛一番の外はお舞にならず“人間五十年、下天の内をくらぶれば夢幻のごとくなり”の節をうたいなれた口つきで舞われます<ref name="atsumori"/>。“死のうは一定、しのび草には何をしよぞ、一定かたりをこすよの”の小唄の一節を口ずさまれる」と答えた。(信長公記)
* 天正元年([[1573年]])11月、[[足利義昭]]の帰洛交渉のため、[[毛利輝元]]から信長の元に派遣された[[毛利氏]]の家臣・[[安国寺恵瓊]]は「信長の代、五年三年は持たるべく候、来年あたりは、[[公家]]などに成らる可しと見及び候、左候て後、高転びに転ばれ候ずると見申し候、秀吉さりとてはのものにて候」と国許へ書状を送っている。
* 『[[信長公記]]』によれば、[[浅井久政]]・[[浅井長政|長政]]父子と[[朝倉義景]]の3人の[[頭蓋骨]]に[[金箔]]を貼り、「他国衆退出の已後 御馬廻ばかり」の酒宴の際に披露した。これは後世、髑髏を杯にして家臣に飲ませたという話になっているが、実際には使用していないらしい(そもそも信長自身は酒を好まなかったという)。[[髑髏]]を薄濃(はくだみ)にするというのは、死者への敬意を表すものであるとされる。
|