「織田信長」の版間の差分
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* 比叡山焼き討ちなど仏教勢力に対する軍事行動が目立つ。当時の寺院が世俗の権力と一体化して宗教としての意義を忘れていたことや僧侶の腐敗ぶりを批判した。[[新井白石]]は「そのことは残忍なりといえども 長く僧侶の凶悪を除けり これもまた 天下の功有事の一つと成すべし」と評価している。信長と同時代の史料でも「ちか比(ごろ)ことのはもなき事にて、天下のため笑止なること、筆にもつくしかたき事なり」といった記述が『[[御湯殿上日記]]』にある程度で、それほど批判はない。また、仏を信仰することは禁止していない。
* [[茶坊主]]に不手際があり、信長が激怒した。茶坊主は怒りを怖れて棚の下に隠れたが、信長は棚の下に刀を差し入れて、押し切る様に茶坊主を斬り殺したという逸話がある。そのときの刀は切れ味の良さから「[[圧し切り長谷部]](へしきりはせべ)」と名づけられたという。
* [[元亀]]元年([[1570年]])5月6日、[[杉谷善住坊]]という鉄砲の名手が信長を暗殺しようとしたことがあったが未遂に終わり、[[天正]]元年(1573年)に善住坊は捕らえられた。信長は善住坊の首から下を土に生き埋めにし、切れ味の悪い竹製の[[鋸]]で首を挽かせ、長期間激痛を与え続ける[[拷問]]を科した。
* 天正2年([[1574年]])の長島一向一揆で、
* 天正6年([[1578年]])、[[畿内]]の[[高野聖]]1,383人を捕え殺害した。高野山が荒木村重の残党を匿ったり、足利義昭と通じるなど、信長と敵対する動きを見せたことへの報復であったという。また、高野聖に成り済まし密偵活動を行う者がおり、これに手を焼いた末の行動でもあったとも云われている。
* 天正6年(1578年)12月13日、[[尼崎]]近くの七松で、謀反を起こした[[荒木村重]]の一族郎党の婦女子122人を[[磔]]、鉄砲、槍・長刀などで処刑した。さらに女388人男124人を4つの家に押し込め、周囲に草を積んで焼き殺した。『[[信長公記]]』ではその様を「魚をのけぞるように上を下へと波のように動き焦熱、大焦地獄そのままに炎にむせんで踊り上がり飛び上がった」と記している。これは当の荒木村重が家臣数名とともに城を脱出し、その後に村重の説得にあたった村重の家臣らが信長との約束に背いて、人質を見捨てて出奔してしまった事による、言わば「制裁」であった。
* 天正10年([[1582年]])4月10日、信長は[[琵琶湖]]の[[竹生島]]参詣のために[[安土城]]を発った。信長は翌日まで帰って来ないと思い込んだ侍女たちは<ref>安土城と竹生島の間は往復で約30里(約120km)の距離がある</ref>、[[桑実寺]]に参詣に行ったり、[[城下町]]で買い物をしたりと勝手に城を空けた。ところが、信長は当日のうちに帰還。侍女たちの無断外出を知った信長は激怒し、侍女たちを縛り上げた上で、全て殺したとされる。また、侍女たちの助命嘆願を行った桑実寺の長老も、同じく殺されたという。ただし、桑実寺の長老に関する記録が[[本能寺の変]]以降も残っているため、実際には長老は殺されていないと桑実寺の側は主張している。また、この逸話の原典となっている『[[信長公記]]』には、信長が侍女たちと長老を「成敗した」とはあるが、「殺した」とは書かれていない。当時、「成敗」とは必ずしも死刑のみを意味するものではなく、縄目を受ける程度の軽い成敗(処罰)の方法もあったことから、何らかの処罰はあったものの死刑にまでは至っていないとする説もある。ちなみにフロイス日本史には年代不明ながらこれと良く似た事件が書かれているが、こちらでは「彼女たちを厳罰に処し」たとあり、そのほか、寺に逃げ込んだ1人か2人と寺の僧侶らが殺された、とある。<ref>「かつて信長は、政庁の数名の召使の女、または夫人たちに対してひどい癇癪を起こし、彼女たちを厳罰に処した。そのうちの1人か2人は処罰されたあと、ある山の真中にあり、城から3、4の射程距離にある一仏寺に逃れた。このことが信長の耳に入ると、彼は、聖霊降臨の祝日の前夜のことであったが、その寺の全僧侶を捕縛させ、翌日には1人も生かしておくことなく全員を殺させたが、その数はおびただしかった。」(『完訳フロイス日本史2 信長とフロイス』第32章より)</ref>
* 比叡山焼き討ちなど仏教勢力に対する軍事行動についても、当時は仏教勢力自らが軍事力を持ち、敵対勢力に対して軍事行動を行っていた時代である事も考慮すべきである(例えば当の比叡山延暦寺も、[[本願寺]]を焼き討ちするなどの行動をしている)。
* 信長の敵勢力に対する行為の大半は、当時の戦国大名の間では当たり前に行われていたもので、信長だけが取り立てて残虐非道であったわけではない。[[豊臣秀吉]]が天正5年([[1577年]])に、[[毛利氏]]への見せしめとして、[[備前国]]・[[美作国]]・[[播磨国]]の国境付近で女・子供200人以上を処刑(子供は[[串刺し]]、女は[[磔]])した行為<ref>同年12月5日の羽柴秀吉書状</ref>、[[武田信玄]]・[[上杉謙信]]等の戦費確保や自軍への報酬として、敵を[[奴隷]]として売却すること([[ルイス・ソテロ]]等の日記)や敵方の女性を[[競売]]にかけたり([[小田井原の戦い]])といった行為等もことさら珍しいことではなかった。このように当時の状況や道徳の違いを考慮してその行動を評価する必要がある。
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