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[[ファイル:First century palestine.gif|right|thumb|250px|1世紀のパレスティナ]]
'''ユダヤ戦争'''([[ヘブライ語]]:המרד{{lang-he|המרד הגדול‎הגדול}}、アルファベット表記:ha-Mered Ha-Gadol)は[[帝政ローマ]]期の[[66年]]から[[73年]]まで、ローマ帝国とローマの[[ユダヤ属州]]に住むユダヤ人との間で行われた戦争である。
 
== 経緯 ==
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[[68年]]4月、[[ガリア・ルグドゥネンシス]][[属州]][[総督]]であった[[ガイウス・ユリウス・ウィンデクス]]による反乱が発端となって、同年6月に[[ネロ]]が自殺。69年には4人のローマ人が次々と皇帝に即位(「[[ローマ内戦 (68年-70年)|4皇帝の年]]」)した他、[[ゲルマニア]]で[[ガイウス・ユリウス・キウィリス]]を首謀者とした反ローマの反乱が勃発する等、ローマは大混乱に陥った。ウェスパシアヌスもエルサレム攻略を目前にして、ローマへ向かった。ローマ軍の司令官不在のまま、ユダヤ戦争は一旦、戦線こう着状態となった。
 
69年12月に[[アウルス・ウィテリウス]]が殺害され、唯一のローマ皇帝としてローマ帝国を掌握したウェスパシアヌスは懸案のエルサレム陥落を目指して、ティトゥスを攻略に向かわせた。70年、ユダヤ人たちは神殿や[[アントニウス要塞]]に拠って頑強に抵抗したが、圧倒的なローマ軍の前に敗北し、[[エルサレム神殿]]はユダヤ暦第6月8日、9日、10日に火を放たれて炎上し、エルサレムは陥落した。エルサレムを舞台とした叛乱は鎮圧され、ティトゥスはローマへと凱旋した。このとき、つくられたのが[[フォロ・ロマーノ]]に今も残る[[ティトゥス]]の[[凱旋門]]である。そこにはエルサレム神殿の宝物を運ぶローマ兵の姿が刻まれている。
 
=== マサダ陥落 ===
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なおこの戦争を第1次ユダヤ戦争といい、[[ハドリアヌス]]帝治世下の[[132年]]から[[135年]]にかけて再び勃発した[[バル・コクバ]]を指導者とする叛乱([[バル・コクバの乱]])は第2次ユダヤ戦争と称される。
 
バル・コクバの乱を鎮圧したローマ帝国は、死刑にするとしてユダヤ教徒に改宗を迫り、エルサレムも「[[アエリア・カピトリナ]]」と変更し、パレスチナには穀物が実らぬよう塩をまいた、という。詳細は「[[バル・コクバの乱]]」を参照のこと。
 
== 関連項目 ==
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{{DEFAULTSORT:ゆたやせんそう}}
[[Category:ローマ帝国の戦争]]
[[Category:フラウィウス朝]]
[[Category:古代イスラエル・ユダ]]
[[Category:エルサレムの歴史]]