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== 人物 ==
=== 出身・家系 ===
* 秀吉の父・弥右衛門は[[百姓]]であったとされるが、百姓=農民とするのは後代の用例であり、弥右衛門の主たる生業は織田家の[[足軽]]だったとする説もある。[[太田道灌]]や[[北条早雲]]の軍制に重用された足軽は急速に全国へ広まっていた。ただし、秀吉が初めて苗字を名乗るのは木下家出身のねねとの婚姻を契機とすることを指摘した研究もある。つまり、それ以前は苗字を名乗る地盤すら持たない階層だった可能性も指摘されている<ref>当時の百姓身分は農業や手工業の比較的規模の大きい経営者階層であり、この層に出自する者が地侍などの形で武士身分に食い込みを図るときには、勢力地盤となっている村の名前などを苗字とするのが普通であるし、そもそもこの階層は惣村共同体の足軽中で通用する程度に権威のある私称の苗字を保持しているのが通例であった。それすらも自前で名乗る地盤を持たなかったとすれば、秀吉の出自は百姓身分ですらない、さらに下層の出身者である可能性がある。</ref>。[[フロイス日本史]]では「若い頃は山で薪を刈り、それを売って生計を立てていた」、[[日本教会史]]では、秀吉は「木こり」出身と書かれている。また[[八切止夫]]は、秀吉は「端柴売り」出身で、わざとその事を示す羽柴(=端柴)に改姓し、自分が本来低い身分なのだとアピールすることによって周囲からの嫉妬を避けようとしたのだと推測している。[[井沢元彦]]は「当時の西洋人からは端柴売りが木こりに見えたのだろう」と両者を整合する説をとっている。<ref>井沢はさらに「秀吉」という名前も、「稗よし(稗くらいは良く食べられますように)」という当時の貧民層に見られた名前を変えたもので、これも自分をへりくだるための命名だと推測している。</ref>
* 秀吉は好色・女好きで知られ、300名ともいわれる多くの側室を置いていたが<ref>[[ルイス・フロイス]]は『日本史』において「300名の側室を抱えていた」と記録している。その反面、『伊達世臣家譜』には「秀吉、愛妾十六人あり」という記述が見られる。歴史学者の桑田忠親も、秀吉の正式な側室は20人足らずだと推定している。フロイスが挙げた数字は、側室の世話をする女官も含めた数字であろう。</ref>、一方で正室である[[高台院]]にも、側室のほとんどとの間にも子供が生まれず、実子の数は生涯を通じても非常に少なかった。これは秀吉自身が子供ができにくい体質であったためと思われる。そのため秀頼は秀吉の子ではなく、淀殿が他の者([[大野治長]]など)と通じて成した子であるとする説もある。これについては、秀頼だけでなく鶴松の時点でそうした噂があったようである<ref>『完訳フロイス日本史5 「暴君」秀吉の野望』第34章</ref>
* 子宝に恵まれなかった秀吉であるが、長浜城主時代に一男一女を授かったという説がある。男子は南殿と呼ばれた女性の間に生まれた子で「秀勝」と言ったらしい。[[長浜市|長浜]]で毎年4月(昔は10月)に行われる曳山祭は、秀吉に男の子が生まれ、そのことに喜んだ秀吉からお祝いの砂金を贈られた町民が、山車を作り、長浜八幡宮の祭礼に曳き回したことが、始まりと伝えられている。しかし、実子秀勝は、幼少で病死(その後、秀吉は2人の養子に秀勝の名を与えている)。長浜にある妙法寺には、伝羽柴秀勝像といわれる子どもの肖像画や秀勝の墓といわれる石碑、位牌が残っている。女子については、名前を含め詳細不明であるが、長浜市内にある舎那院所蔵の弥陀三尊の懸仏の裏に次のような銘記がある。「江州北郡 羽柴筑前守殿 天正九年 御れう人 甲戌歳 奉寄進御宝前 息災延命 八月五日 如意御満足虚 八幡宮」これは秀吉が、天正2年(1574年)に生まれた実娘のために寄進したとされている<ref>近江坂田郡誌に記載</ref>。となると秀吉は長浜城時代に秀勝ともう一人の女の子が授かっていることになる。しかし、舎那院では現在、秀吉の母である大政所のために寄進されたものであると説明している。多聞院日記によれば、大政所は[[文禄]]元年(1592年)に76歳で亡くなっているとされているので年代にずれがある。「御れう人」とは麗人のことであり、76歳の老人にまで解釈が及ぶものかどうか疑問であり、秀吉に女児が生まれたと考える方が妥当である。
* 関白就任時に、母親の大政所は萩中納言の娘であり、自身も帝の血を引いていると主張した。側近の[[大村由己]]が記した『関白任官記』の他、[[松永貞徳]]の『戴恩記』にも同様の記述が見られる。当時の公家に萩中納言という人物は存在せず、関白就任のための方便だったとされている<ref name="Owada"/>。
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** 毛利家家臣の[[玉木吉保]]は「秀吉は赤ひげで猿まなこで、空うそ吹く顔をしている」と記している。
** 秀吉に謁見した朝鮮使節は「秀吉が顔が小さく色黒で猿に似ている」と報告している(『[[懲毖録]]』)。
** ルイス・フロイスは「彼は身長が低く、また醜悪な容貌の持ち主で、片手には6本の指があった。目が飛び出ており、シナ人のようにヒゲが少なかった」と書いている<ref>『完訳フロイス日本史4 秀吉の天下統一と高山右近の追放』第16章</ref>。また、秀吉本人も「皆が見るとおり、予は醜い顔をしており、五体も貧弱だが、予の日本における成功を忘れるでないぞ」と語ったという。<ref>『完訳フロイス日本史4 秀吉の天下統一と高山右近の追放』第14章</ref>
** [[藤田達生]]は[[山王信仰]](猿は[[日吉大社]]の使い)を利用するため「猿」という呼び名を捏造したと推測している。
** 信長は「猿」と呼んでいないとの主張もある。「禿げ鼠」の呼び名も、信長の[[高台院|ねね]]への書状の中で秀吉を叱責する際に「あの禿げ鼠」と書かれているものが1つ現存しているのみで、普段でもそう呼ばれていたかどうかは不明。
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* 母・大政所への忠孝で知られる。小牧・長久手の戦いの後、家康を上洛させるため母と妹を人質として一時家康に差し出したが、そこで母を粗略に扱った[[本多重次]]を後に家康に命じて蟄居させている。天下人としての多忙な日々の中でも、正室・北政所や大政所本人に母親の健康を案じる手紙をたびたび出しており、そのうちの幾つかは現存している。朝鮮出兵のために肥前名護屋に滞在中、母の危篤を聞いた秀吉は急いで帰京したが、結局臨終には間に合わず、ショックのあまり卒倒したという。秀吉が親孝行であったことは[[明治時代]]の[[国定教科書]]でも好意的に記述された。
* 戦国大名は主君と臣下の[[男色]](いわゆる「[[衆道]]」)を武士の嗜みとしていたが<ref>有名なのは織田信長と[[長谷川秀一]]などである。</ref>、秀吉には男色への関心がまったくと言ってよいほどなかった。男色傾向の無さを訝しんだ家臣が家中で一番との評判の美少年を呼び出し、秀吉に会わせ二人きりにさせたのだが秀吉はその少年に「お前に姉か妹はいるか?」と聞いただけだったと言われる。
* 秀吉に直接会ったこともあるルイス・フロイスは、秀吉の外見以外については「優秀な武将で戦闘に熟練していたが、気品に欠けていた。身長が低く、醜悪な容貌の持ち主だった。片手には六本の指があった。」「極度に淫蕩で、悪徳に汚れ、獣欲に耽溺していた」「抜け目なき策略家であった」「彼は本心を明かさず、偽ることが巧みで、悪知恵に長け、人を欺くことに長じているのを自慢としていた」などと記している。
*上杉謙信と対決するために北陸へ出兵した際、軍議で大将の柴田勝家に反発し、勝手に領地へ引き上げてしまったことがある<ref>この無断撤退が信長の怒りを買ったことは、『信長公記』にも記されている。『絵本太閤記』では、謙信の武勇を軽視した勝家に対する面当てだったとされる。</ref>。その後の中国攻めでも、宇喜多直家の寝返りを勝手に許可してしまい、再び信長に怒られている。
* 人と同じに振る舞うことを嫌う、[[傾奇者]]だった。何回か開いた仮装茶会(名護屋城の仮装茶会が有名)では、参加する武将達にわざと身分の低い者の格好をしてくるように通達し、自身も瓜売りの姿で参加したと伝えられている。武将たちも喜んで通達に応じ、徳川家康は同じく瓜売り、伊達政宗は[[山伏]]に扮した。