「鉄砲」の版間の差分
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日本に「銃」としての鉄砲が伝来する以前、[[元寇]]時に「てつはう」と言う火薬を使った音のする武器が知られていたことから、銃が伝来してのち、これに「鉄砲」の字を当てたとも云う。通説では、「銃」に相当する鉄砲は[[天文 (日本)|天文]]12年([[1543年]])に、[[ポルトガル]]人をのせた中国の船舶が[[種子島]]に到着したことをもって伝来の最初とする。ただし、近年[[宇田川武久]]が日本の火縄銃と西欧の銃の構造の違いなどから、それ以前から[[東南アジア]]で改良された銃が日本に伝来していた可能性を指摘して以後、それ以前に日本に銃が存在していたのかどうかについての議論が活発に行われている([[鉄砲伝来]])。
鉄砲は[[和泉国]][[堺]]や[[紀伊国]][[根来衆|根来]]・[[近江国]][[国友]]など各地で生産され、[[島津氏]]や[[三好氏]]、[[足利将軍家]]など[[九州]]・[[近畿]]の大名は早くからその充実に力を注いだ。だが、その大量整備で知られたのは[[織田信長]]であった。[[長篠の戦い]]における[[織田氏]]の鉄砲隊の活躍については過大評価されてきた部分はあったものの、鉄砲の普及に大きな影響を与えた。また、鉄砲の生産・所持のためには多額の費用がかかることから[[蔵入地]]の増大などの[[戦国大名]]の統治構造にも影響を与えた。また、当初は海外で採掘されたものの輸入に依存していた[[硝石]]も、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]末期にはわずかながら国内で生産
[[元和偃武]]後、[[江戸幕府]]は鉄砲を規制する方針を採った。ただし、その本格化は[[貞享]]4年([[1687年]])以後の[[徳川綱吉]]による[[鉄炮改]]強化以後のこととなる。それ以前は藩によっては[[農兵制]]を採用したりする藩([[山鹿素行]]などの[[軍学者]]の中にもこれを支持する意見があった)もあり、統一した方針が確立されていたわけではなかった。江戸幕府においては[[新居関所]]における[[入鉄炮]]の規制や[[明暦]]3年([[1657年]])の[[関東盗賊取締令]]における鉄砲統制などがあったが、綱吉の政策以後在村の鉄砲の没収などの措置が採られ、[[生類憐みの令]]による鳥獣の観点から規制は強化される方向にあった。もっとも、農村部における鳥獣による農作物への被害を避けるために領主が管理する鉄砲を特別な租税([[鉄炮運上]])と引換に一時的に借り出すという名目での[[預鉄炮]]([[拝領鉄炮]])は容認せざるを得なかったのである。
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