「今川範高」の版間の差分
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| 画像サイズ =
| 画像説明 =
| 時代 = [[江戸時代]]中期
| 生誕 = [[元禄]]7年([[1694年]])
| 死没 = [[正徳 (日本)|正徳]]2年[[2月15日 (旧暦)|2月15日]]([[1712年]][[3月21日]])
| 改名 =
| 別名 = 豊五郎、刑部
| 戒名 = 乾功院殿仁岳宗寛大居士<ref name="hougou">『今川氏と観泉寺』p.74、「近世今川家歴代法号一覧表」。</ref>
| 墓所 = [[東京都]][[杉並区]]和田の[[長延寺]]
| 官位 =
| 幕府 = [[江戸幕府]][[高家 (江戸時代)|高家]]
| 主君 = [[徳川綱吉]]→[[徳川家宣|家宣]]
| 藩 =
| 父母 = 父:[[品川伊氏]] 母:[[蒔田定行]]の娘<br />養父:''[[今川氏睦]]''
| 兄弟 = '''範高'''、[[今川範主|範主]]、[[品川範増]]
| 子 =
}}
'''今川 範高'''(いまがわ のりたか)は、[[江戸時代]]の[[高家 (江戸時代)|高家]][[旗本]]。
== 生涯 ==
高家品川伊氏の長男として生まれる。元禄12年([[1699年]])、今川氏睦の[[末期養子]]となり、6歳で家督を相続して表高家衆に列した。[[宝永]]元年([[1704年]])12月11日将軍[[徳川綱吉]]に御目見する。宝永7年(1710年)12月1日<ref>『今川氏と観泉寺』p.48</ref>、高家[[畠山義寧]]の次女と婚姻。▼
▲元禄12年([[1699年]])、今川氏睦の[[末期養子]]となり、6歳で家督を相続して表高家衆に列した。[[宝永]]元年([[1704年]])12月11日将軍[[徳川綱吉]]に御目見する。宝永7年(1710年)12月1日<ref>『今川氏と観泉寺』p.48</ref>、高家[[畠山義寧]]の次女と婚姻。
正徳2年(1712年)2月15日死去、享年19。
男子はなく、
▲実家である高家品川氏は、今川氏の庶流である。範高の実父品川伊氏は、外祖父[[品川高如]]の養子になっている。範高の養父氏睦の実父[[品川高寛]]は高如の弟であるため、氏睦と範高は系譜上は従兄弟に当たる。
▲正室畠山氏は範高の死後実家に戻り、のち[[三河国|三河]][[奥殿藩]]主[[松平乗真]]に継室として再嫁した。
== 参考文献 ==
*『[[寛政重修諸家譜]]』巻第九十四
* 観泉寺史編纂刊行委員会編『今川氏と観泉寺』(吉川弘文館、1974年)
==
{{reflist}}
{{今川氏歴代当主|高家今川氏||1694-1712}}▼
{{DEFAULTSORT:いまかわ のりたか}}
[[Category:今川氏|のりたか]]
[[Category:品川氏|のりたか]]
[[Category:江戸幕府旗本]]
[[Category:1694年生]]
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