「木村庄之助 (23代)」の版間の差分
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[[初土俵]]は{{和暦|1909}} ([[大坂相撲]]) 。初名は木村藤吾。師匠は大坂相撲出身で、初代木村正直(のち8代[[木村玉之助]])でもある[[木村越後]]。木村越後は[[木村庄之助 (20代)|20代木村庄之助]]([[松翁_(行司)|松翁]])と匹敵する名行司で、[[木村庄之助 (22代)|22代木村庄之助]]は「東の名人松翁、西の達人越後」と評している。朝日山部屋所属で、東西合併後も2代木村正直として[[三役]]格(のち[[副立行司]])に昇格。
正直時代の[[1949年]][[1月20日]]、[[日本相撲協会|大日本相撲協會]]が「行司学校」を開設、主任[[教授]]に任命された。
[[1960年]]から[[日本相撲協会]]が停年制度が導入したことにより、22代庄之助、[[式守伊之助 (19代)|19代式守伊之助]]の両立行司が引退。これに伴い23代庄之助を襲名した。伊之助を経ずにいきなり庄之助を襲名しており、これは代々伊之助から庄之助を継承(17代庄之助が最初)するようになってからは2人目(前例は[[1922年]]1月場所、初代[[木村朝之助]]が18代庄之助を襲名)で、その後見られない珍しい例である。在位は3年であったが、停年後は長寿を保った(96歳で逝去)。▼
▲[[1960年]]から
若々しい風貌、キビキビした土俵態度、足裁きの名人で、明敏な人物であった。[[栃錦清隆|栃錦]]・[[若乃花幹士 (初代)|初代若乃花]]の両[[横綱]]最終戦となる全勝対決を裁くなど、「栃若時代」の代表的な行司である。弟子に[[式守伊之助_(24代)|24代式守伊之助]](3代木村正直)がいる。また足裁きは、[[木村庄之助_(29代)|29代木村庄之助]]がその流れを受け継いでいる。
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