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古代建築学の泰斗、[[藤島亥治郎]](東京大学工学部名誉教授)や[[村田治郎]](京都大学工学部名誉教授)らが創建時の法隆寺金堂の屋根は[[玉虫厨子]]と同じ[[錏葺き]]であったという説を指示していたが、西岡は解体工事の際に垂木の位置と当て木に使われていた釘跡を発見して[[入母屋]]造りと判断し、双方の論争にまで発展したが、結局は釘跡が決定的な証拠となって入母屋造りと判明した。後、西岡は「ありがたい釘穴やなあ。」と述べていた。<ref>西岡・青山「斑鳩の匠・宮大工三代」p・105~106</ref>
 
法輪寺三重塔再建では、[[竹島卓一]](名古屋工業大学教授)と大論争になった。竹島教授は法隆寺大修理の工事事務局長で、西岡とも面識があり、中国古代建築の専門家としての知識を生かして三重塔の設計を行ったが、常一は設計図に鉄骨を補強に使用することに猛反対した。初めは法輪寺住職[[井上慶覚]]の仲介で両者の関係は穏便になっていたが、井上の死後、対立は激化した。竹島は常一の力量を認めながらも将来飛鳥時代方式の建築技術の断絶を恐れ、後世にわかりやすい江戸期の技術を採用する考えであったが、常一は江戸期の鉄を補強したやり方は却って木材を痛め寿命を縮めるとして否定、双方が現場で感情的な口論となる事態となり、果てには新聞紙面で論陣を張るまでに至った。もっとも西岡は「あの人は学者としてちゃんとした意見を主張してはるわけですわ。」<ref>西岡・青山「斑鳩の匠 宮大工三代」p・125</ref>と、竹島には敬意を示している。結局、最低限度の鉄骨使用ということで折り合いがついたが、青山茂は「非常に気持ちのいい論争」<ref>西岡・青山「斑鳩の匠 宮大工三代」p・125</ref>と評しているように双方とも正論を吐き、情熱を傾けた事件であった。
 
== エピソード ==