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== 戦後の影響 ==
毛利氏はこの戦いによって本格的に織田氏との戦争状態に入り、同年7月に[[荒木村重]]が[[石山本願寺]]と連携して織田氏から離反([[有岡城の戦い]])、続いて[[小寺政職]]が離反し、播州一帯は一時的に毛利氏が勢力を盛り返す。しかし毛利軍はついに積極的攻勢に出ることはできず、守勢・支援に徹して領土の保全に努めた。同年11月に[[第二次木津川口の戦い]]で[[毛利水軍]]が大敗を喫し、{{和暦|1579}}10月に[[宇喜多直家]]の離反という毛利氏が危惧していた事態が起こるとその勢力圏は大きく後退し、同月に荒木村重が、翌{{和暦|1580}}には小寺政職が滅ぼされ、さらに長年織田軍を釘付けにしてきた[[石山合戦]]の終結により[[信長包囲網]]が崩壊する。
 
この間、羽柴秀吉は2年に及ぶ兵糧攻めの末に三木城を落とし([[三木の干殺し]])、兵力を整えて[[中国攻め]]を推進する。ほぼ独力で織田家との戦いを継続せざるを得なくなった毛利氏は和睦の道を探るが、両軍の争いは[[本能寺の変]]が起こる{{和暦|1582}}まで続いた。