「實川延若 (2代目)」の版間の差分

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[[Image:Enjaku Jitsukawa II as Ishikawa Goemon.jpg|thumb|250px|left|二代目延若の五右衛門]]
戦後は脚が不自由になるも芸格は高まった。1950年([[昭和]]25年)5月に[[東京劇場]]で演じた『[[楼門五三桐|山門]]』の[[石川五右衛門]]は歌舞伎史上に残る名舞台で、映画にも記録された。当時すでに歩くことも困難な状態で、両脇を支えてもらいながら関係者に挨拶するほどだだったが、いざ金爛[[褞袍]]に大百日[[鬘]]で[[南禅寺]]山門上に立つと別人のように背筋がしゃきっと伸びた。その五右衛門の迫力は圧巻で、マイクが壊れるくらいの朗々たる声と風格であった。記録映画では客席にジワ(観客が漏らす感嘆のどよめき)が広がるのを聞き取ることができる<ref>延若の五右衛門は歌舞伎史に残る名演として、鍋井克之の画により[[タペストリー]]に織られ、[[歌舞伎座]]のロビーに飾られている。</ref>。
 
同年[[日本芸術院]]会員になる。翌1951年(昭和26年)1月大阪歌舞伎座の『八陣守護城』で[[加藤清正|佐藤正清]]。1月23日、松竹会長[[白井松次郎]]の葬儀に参列して風邪を引き病の床につく。2月22日死去。「最後の上方役者」と呼ばれた延若の死は一つの時代の終わりでもあった。<br clear=all>