「堺事件」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
13行目:
土佐藩は警備隊長箕浦以下全員を吟味し、隊士29名が発砲を認めた。一方朝廷の[[岩倉具視]]、[[三条実美]]らフランスの要求には無理難題が多く隊士すべてを処罰すると国内世論が攘夷に沸騰する事を懸念し、処罰される者を数を減らすように要求。結局、政府代表の[[東久世通禧]]らがフランス側と交渉し、隊士全員を処罰せず隊長以下二十人を処罰すること。処刑の時間および場所などをまとめた。
まず、隊長の箕浦、西村ら4名の指揮官は責任を取って死刑が決定。残る隊士16名を事件に関わった者として選ぶこととなり、現在の[[大阪府]][[大阪市]][[西区 (大阪市)|西区]]にある[[土佐稲荷神社]]で籤を引いて決めた。
まず、隊長の箕浦、西村ら4名の指揮官は責任を取って死刑が決定。残る隊士16名を事件に関わった者として選ぶこととなり、現在の[[大阪府]][[大阪市]][[西区 (大阪市)|西区]]にある[[土佐稲荷神社]]で籤を引いて決めた。[[2月23日 (旧暦)|2月23日]]([[3月16日]])、大阪裁判所の宣告により堺の[[妙国寺]]で土佐藩士20人の刑の執行が行われた。切腹の場で藩士達は自らの腸を掴み出し、居並ぶフランス水兵に次々と投げつけるという行為を行った<ref>前掲 『英国外交官の見た幕末維新』 153-154頁。英国外交官ミットフォードは、切腹の場に立ち会ったデュプティ・トゥアール艦長からその様子を聞き取っている。</ref>。その凄惨さに、立ち会っていたフランス軍艦長[[アベル・デュプティ=トゥアール|デュプティ=トゥアール]](Dupetit-Thouars)は、(フランス人の被害者数と同じ)11人が切腹したところで外国局判事[[五代才助]]に中止を要請し、結果として9人が助命された。一説に、暮色四辺にたちこめ、ついに日暮れるに至り、軍艦長は帰途における襲撃を恐れたからであるという。本人の日誌によれば、侍への同情も感じながら、この形での処刑はフランス側が望むように戒めになるどころか逆に侍が英雄視されると理解し中断させたそうである。▼
死刑となった顔ぶれは以下の二十名である。
*箕浦猪之吉 25歳
*西村佐平次 24歳
*池上弥三吉 38歳
*大石甚吉 35歳
*杉本広五郎 34歳
*勝賀瀬三六 28歳
*山本鉄助 28歳
*森本茂吉 39歳
*北代健助 36歳
*稲田貫之丞 28歳
*柳瀬常七 26歳
以上が切腹した。(数字は亨年)
*橋詰愛平
*川谷銀太郎(恩赦直前の1868年9月5日病死)
*金田時治
*竹内民五郎
*岡崎栄兵衛
*土居八之助
*横田辰五郎
*垣内徳太郎
*武内弥三郎
川谷以外は恩赦八士と呼ばれた。
▲
2月24日、外国事務局総督[[山階宮晃親王]]は、大阪鎮台外国事務兼務[[伊達宗城]]を伴ってフランス艦に行き、謝意を表し、償金15万ドルを交付した。
|