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同日午後三時ごろ、領事一行を迎えるべく[[フランス海軍]]のコルベット艦[[デュプレクス (コルベット)|デュプレクス]]は堺港に入り、湾内を測量、士官以下数十名の水兵が上陸、市内を徘徊した。夕刻、土佐藩軍艦府の命を受けた箕浦、西村らは帰艦を諭示させたが言葉が通じず、藩兵は水兵を連行しようとした。水兵側は土佐の隊旗を倒伏、逃亡しようとしたため、土佐藩側は咄嗟に発砲し、フランス人11人を殺傷または、海に落として溺死させた。土佐藩側ではフランス人が迷惑不遜行為に及んだための処置であるとした。遺体は16日に引き渡しを終えた。
死亡したフランス人は11名いずれも20代の若者であった。
*シャルル・P・アンドレ・ギヨン 第一級見習士官 22歳
*ガブリエル・M・ルムール 第一級一等水兵 28歳
*ヴィクトル・グリュナンヴェルジェ 機関運転手 24歳
*オーギュスト・ルイ・ランジュネ 三等水兵 22歳
*ラザル・M・ボベス 三等水兵 22歳
*ピエール・M・モデスト ニ等水兵 27歳
*アルセーヌ・フロミロン・ユメ 三等水兵 23歳
*ジャン・マチュラン・ヌアール 三等水兵 22歳
*ジャック・ラヴィ 三等水兵 22歳
(以上9名は3月8日死亡)
*ヴァンサン・ブラール 三等水兵 20歳
*フランソア・デジレ・コンデット 水兵希望 23歳
(以上2名は9日死亡)
彼ら11名は神戸居留地外人墓地においてロッシュ、パークスのほかオランダ公使ら在阪外交官立会いのもとに埋葬された。ロッシュは悲哀を込めた弔文を読み上げたが、それには「補償は一層公平に少しも厳しくないことなく行われる。ここに余は、フランス皇帝陛下の名において諸君に誓うものである。皆の死の報復こそ、将来我らが、我が戦友が、我が市民が、諸君が斃されたごとき残虐なる行為から逃れると望むことの方法で実施されよう。」という復讐を誓った激烈な一文が込められていた。
事件発生の報は翌[[2月16日]]の朝には京都に届いた。[[山内容堂]]は、2月19日早朝、たまたま[[京都]][[土佐藩|土佐]][[藩邸]]に滞在していた[[英国]][[公使館]]員[[アルジャーノン・ミットフォード|ミットフォード]]に、藩士処罰の意向をフランス公使に伝えるように依頼した。この伝言は[[淀川]]を下り、夕刻には[[大坂]]へ戻ったミットフォードにより、[[神戸港|兵庫]]に滞在するフランス公使[[レオン・ロッシュ]]に伝えられた<ref>A.B.ミットフォード 『英国外交官の見た幕末維新』 長岡祥三訳、講談社<講談社学術文庫1349>、1998年、151-153頁。原書は1915年刊。</ref>。
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