「古川ロッパ昭和日記」の版間の差分
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== 概説 ==
ロッパは若いころから日記をつけていたが、自身の手で1933年以前の日記を焼却してしまい、現在残されているのは1934年1月1日から死の直前の1960年12月25日までの日記である。ただし1935年分と1945年7月
ロッパは其の日の出来事を事項別にメモしたノートに記し、その翌朝、ノート類をもとに日記に付けていた。仔細に書く必要から万年筆を裏返して小さな字で記入し、余白部には追記の書き込みを設けた。始め日記帳は市販のを使っていたが戦時中の紙不足で手に入らなくなると大学ノートに記入するようになる。このことがスペースにこだわらない「のびのびした日記気分」(1945年2月26日)を生みだし、1945年度から日記の記述が倍増し、一か月にノート一冊分にもなるほどであった。日記の総量は400字詰め原稿用紙三万枚以上とされる。<ref>「日記による近代日本 4 昭和前期」p・174</ref>
== 内容 ==
時代の趨勢と共に日記の内容も大きく変化しているのも特色である。
*1924年~1941年 ロッパのキャリアの中で最も勢いのあったころであり、内容も、心技体共に充実し舞台活動に向かっている様が活写されている。
以降は[[防空壕]]に日記を入れて焼失を免れさせ、「日記をつけている瞬間が、天国だといふことを知ってゐるのは僕だけだ。」(1945年2月12日)の記述の如く日記に対する思い入れが強まる。この姿勢は最晩年になっても途切れることはなく「日記は俺の情熱、そして業」(1960年12月4日)と記している。それだけに自身の内面が垣間見られ、通読すると戦前の順風満帆期から戦中の苦難を経て、戦後、人気が凋落し債務と病魔に苦しむ晩年までの一芸人の哀歓が浮かび上がる。▼
*1942年~1945年7月 戦時下の制限された条件で、自身の芸を確立せんと苦戦するロッパの姿がある。時局への批判、自らを鼓舞する文言、現実逃避のための美食と麻
雀に関する記事が多い。
*1945年9月以降 時流に遅れ不遇の中にあったため、内容も愚痴や病気など悲惨なものが多い。また最後まで日記に拘泥する記事が多くなる。「ロッパ日記の本質がもっともよく現れている。・・・一九五九年以降、ロッパは日記によって生かされている状態になる。」<ref>「日記による近代日本 4 昭和前期 より 加藤厚子『古川ロッパ日記』の項 p・190」</ref>
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== 日記の発表 ==
日記の一部は、食に関する部分が編集され「[[ロッパの悲食記]]」(1959)となっている。その後は遺族が保存していたが、1987年NHKのプロデユーサー滝大作によって再発見され、昌文社から全文が「戦前編」「戦中編」「戦後編」「晩年編」の4巻として発表された。
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