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===関・加治田合戦===
[[斎藤道三]]の末子・[[斎藤利治]]が名目で堂洞城を攻略し、信長率いる織田軍は、加治田城御殿屋敷で一泊し、翌日岸方の首実検を行い、犬山へ帰陣した。その途中、長井道利率いる関軍と到着した斎藤龍興率いる本隊三千人以上織田軍に襲いかかった。信長軍は手勢七百人足らずで、岸軍の働きにより、怪我人や死傷者が出ていて戦える状態ではなかった。織田軍は広野へ退き、龍興と対陣。かかるようにみせかけて、怪我人を逃し、最後は自ら急ぎ引き上げた。斎藤軍は織田軍があっけなく退却したので、斎藤龍興本陣は[[岐阜城]]へ戻る。その後、長井道利は援軍の一部を率いて加治田城へ攻め寄せる構えをみせた。[[関・加治田合戦]]により加治田城攻城戦において大軍をもって長井道利関勢が加治田城へ斎藤軍援軍の一隊と共に一丸となって攻めてかかった。織田軍援軍の利治が総大将と加治田衆である[[湯浅新六]]の活躍とにより、優勢であった斎藤勢は突き崩され敗退する。利治の要請により加治田軍と織田軍は東・西・南から関城を直ちに攻め、長井道利はその後関城攻城戦において砦を謀略と伏兵で何とか防いだのだが、遂に龍興援軍が間に合わず、退去し、関城を奪われ中濃地方も信長の勢力圏に入ることとなる。後、西美濃三人衆も利治がいる織田軍に内心し、道三譲り状を信長が正式に受け継ぐこととなる。
 
==中濃攻略後(合戦後)==
*織田軍が中濃攻略を行ったことにより、斎藤氏は東濃との連絡がつかなくることと、武田氏との同盟も無意味になり、斎藤氏の勢力は西美濃のみとなるのだが、斎藤利治が中濃攻略に参加し道三譲り状を渡したことによりって、西美濃でも龍興方斎藤氏に離反し、西美濃三人衆が織田方に味方する。
*信長は斎藤利治を美濃斎藤氏の頭領加治田城主として認め利治は信長が[[本能寺の変]]にて亡くなで死去するまで信長主力重臣次いで後継者である信忠筆頭老(一門衆)として活する。
*斎藤龍興は加治田衆の内心を筆頭に家臣に裏切られ、勢力が衰退し、岐阜城を織田軍に攻略され滅ぶが、織田軍の中に斎藤利治が正式に美濃斎藤氏を引き継ぐこととなり、今後織田家において主要一門衆として美濃を治めることとなる
 
==参考文献==