「ヴィクトル・スタルヒン」の版間の差分

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[[11月29日]]、[[埼玉県営大宮公園野球場]]で開催された同第17戦の8回から敗戦処理で2イニングを投げ、これがプロ野球選手としてのデビューとなった。その後全日本チームを母体として[[読売ジャイアンツ|大日本東京野球倶楽部]]が結成、1935年2月からのアメリカ遠征に参加するが、無国籍だったため当初は[[ビザ]]が下りずにアメリカに入国できず、[[フランク・オドール]]らが奔走してようやくアメリカ入国が可能となった。
 
[[1936年]]、そのまま大日本東京野球倶楽部の後身である[[読売ジャイアンツ|東京巨人軍]]に入団。[[7月3日]]の[[松竹ロビンス|大東京]]戦に救援登板し、3イニングを無失点に押さえて巨人の公式戦初勝利に貢献した(現在のルールでは[[セーブ]]の対象)<ref>『巨人軍5000勝の記憶』p.12</ref>。[[1937年]]より[[沢村栄治]]に替わって、エースに台頭する。[[1938年]]から[[1943年]]まで続く6連覇に大きく貢献した。1937年[[7月3日]]には[[ノーヒットノーラン]]を達成。[[1939年]]に日本記録となるシーズン42勝(戦後の一時期スコアブックの見直しにより40勝とされていた。[[#1939年の勝利数について|後述]])をあげ[[最多勝利|最多勝]]を獲得、[[最優秀選手 (野球)|MVP]]に輝いた。同年、プロ野球初の通算100勝を達成している。165試合目での到達は20102012年現在も破られていない史上最速記録である。
 
[[1939年]]には、日ソ間で大規模な軍事衝突([[ノモンハン事件]])が起こるなど、日本人のロシア人に対する感情が悪化したため、[[1940年]]に「'''須田 博'''(すた ひろし)」に改名を余儀なくさせられた。さらに、日本が[[イギリス]]やアメリカと対戦した[[太平洋戦争]]の戦況が激化した[[1944年]]には、日本はソビエト連邦と中立条約を結んでいる上に、スタルヒンは白系ロシア人であるにもかかわらず「敵性人種」として連行され、多くの交戦国や[[中立国]]の在留外交官等と同様に軽井沢へ軟禁された<ref>この年のプロ野球公式記録上は「病気のため隔離」されたことになっている</ref>。だが、スタルヒンは無国籍者だったため召集されなかった。東京巨人軍は職業野球存続のために、スタルヒンを球界追放した。