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{{by|1985年}}に[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]から[[トレード]]要請があったが、マスコミに漏れてしまい破談となる<ref>これは当時の西武が、[[田淵幸一]]、[[山崎裕之]]の引退により右の主軸を務められる打者を欠いていたためであり、実際、前年限り日本ハムで引退しコーチとして西武に移籍していた[[井上弘昭]]が現役復帰している。なお、中日と西武の間では後日[[田尾安志]]と[[大石友好]]、[[杉本正 (野球)|杉本正]]とのトレードがまとまっている。</ref>。しかし{{by|1987年}}オフ、星野仙一監督のチーム改革により、[[田中富生]]・[[大宮龍男]]との交換で[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハムファイターズ]]へ[[曽田康二]]とともに移籍。すでに37歳であったが、日本ハムでは[[一塁手]]としての起用が多く、チームの得点力不足もあって主軸として活躍し、{{by|1990年}}8月21日の対[[オリックス・バファローズ|オリックス・ブレーブス]]戦で通算2000本安打を達成。39歳10ヶ月での達成は当時最年長記録だった。さらに到達までに要した試合数2290は、プロ野球史上1位であり、1・2年目ともに出場試合数ゼロでの達成も史上初であった<ref>[http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_09august/KFullNormal20090801200.html 【8月21日】1990年(平2) プロ22年生大島康徳 最長2290試合目の2000本安打] - Sponichi Annex</ref>。
 
{{by|1994年}}、代打起用がメインだったものの43-44歳にして.323の高打率を記録したが、同年オフ就任した[[上田利治]]新監督の構想から漏れ現役引退。現役26年は[[工藤公康]](29年)、[[山本昌]]({{by|20102012年}}時点で29年)、[[野村克也]]、[[山本昌]](27年)に次ぐ記録。通算代打本塁打20本は歴代2位。
 
[[ベストナイン (日本プロ野球)|ベストナイン]]を1度も受賞していない。通算2000安打以上を記録しながらベストナイン選出がないのは大島と[[松原誠]]の2人だけ。1979年には一塁手として打撃3部門全てにおいて[[王貞治]]を上回ったにもかかわらず、その王にタイトルを持っていかれ、1983年には外野手として本塁打王を獲得したのに受賞できなかった(受賞者は本塁打王を分け合った[[山本浩二]]、[[最多盗塁 (日本プロ野球)|盗塁王]]の[[松本匡史]]、最多安打の[[田尾安志]])。
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[[プロ野球マスターズリーグ]]に、名古屋80D'sersの選手として在籍している。[[野球の背番号|背番号]]は中日時代の'''5'''。[[日本プロ野球名球会]]が主催する野球教室で着るユニフォームの背番号は、日本ハム時代に2000安打達成して名球会入りしたことから'''11'''である。
 
[[稲尾和久]](中日と名球会で同僚だった)と同郷のため、稲尾には「ヤス」と呼ばれては可愛がられていたという。
 
私生活では30代半ばまで独身を通していた(大島の実家が早くに父・兄を失い大島が母の[[扶養]]をしていた)が、[[郭源治]]の紹介で10歳年下の[[客室乗務員]]をしていた女性と結婚。息子が2人いる。