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江東琴 (会話 | 投稿記録)
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== 評価 ==
この条約の締結により、ドイツは東西2[[二正面作戦|二正面]]での開戦という最悪の事態を避けられるようになり英仏との戦いに有利な状況ができたため、第二次世界大戦の勃発を早める結果となった。戦後に東西冷戦が始まると、アメリカを中心にこの点が問題視され、「スターリンは、ヒトラーの背後の安全を保証してやってドイツと英仏を戦わせ、両陣営が消耗するのを待ってヨーロッパの支配に乗り出す魂胆だったのだ」と主張されるようになった<ref>[[砕氷船理論]]に基づき、その実行の意志が[[1939年8月19日のスターリン演説]]に示されているとの見方がある。</ref>。一方で親ソ的な言論の中には、当時のソ連が英仏独という大国のいずれからも敵視され戦争に巻き込まれる危険を抱えていたので、ドイツか英仏のどちらかと手を結ばざるを得なかったのである、とする意見がある。
 
いずれにせよ、ヒトラーもスターリンも独ソ不可侵条約は互いの勢力拡大の前段階としての一時的な協調に過ぎないと考えていたのは確かである。条約は1941年6月にドイツからの攻撃開始で破綻したが、仮にドイツが先制攻撃をしなかったとしても、いずれ軍備増強が完了すればソ連の方から戦端を開いたであろう事は[[日ソ中立条約]]の例からも充分考えられる。実際、[[独ソ戦]]では緒戦でソ連は大敗北を喫したが、それはドイツ攻撃のためソ連軍が南方に集結しており、中央部の防御が手薄になっていたためだとする説もある([[独ソ戦]]を参照)。