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| Genre = [[オルタナティヴ・ロック]]<br/>[[ブリットポップ]]<br/>[[インディー・ロック]]<br/>[[アート・ロック]]<br/>[[エレクトロニカ]]<br/>[[ポストロック]]
| Years_active = [[1989年]] - [[2003年]]<br/>[[2009年]] -
| Label = [[w:Food Records|フード・レコーズ]]<br/>[[パーロフォン]]<br/>[[ヴァージン・レコード]](米国)<br/>[[w:SBK Records|SBKレコーズ]](米国)<br/>[[EMIミュージック・ジャパン]](日本)
| URL = [http://www.blur.co.uk/ http://www.blur.co.uk]|
| Current_members = [[デーモン・アルバーン]]<br/>[[グレアム・コクソン]]<br/>[[アレックス・ジェームス]]<br/>[[デイヴ・ロウントゥリー]]
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デーモンの作る旋律に、グレアムのローファイでノイジーなギターと、それとは対照的なアレックスのポップなベースライン、デイヴの乾いたドラムの交わりによって曲の骨格が作られる。グレアムがコーラスで参加したり、全員で合唱をする場面もある。
デーモンが大体の曲のラフ・スケッチを作成するが、それをもとに各楽器のパートは4人それぞれセッションをしたり議論をして曲作りがされるため、作曲者のクレジットは4人の名前で表記される。プロデュース作業は[[w:Stephen Street|スティーブン・ストリート]]とグレアムが中心となって行っていたが、『シンク・タンク』以降はデーモンがサイド・プロジェクトである[[ゴリラズ]]の活動を通じてプロデュース能力を上達させたことに伴い、セルフ・プロデュース曲が多くなった。歌詞はほとんどの曲をデーモンが手掛ける。
== 来歴 ==
===バンド結成と『レジャー』===
[[1988年]][[10月]]、当時[[ロンドン大学]][[ゴールドスミス・カレッジ]]に在籍していたデーモンが、「'''サーカス'''」(Circus)という名のインディーズ・バンドを結成。[[コルチェスター]]の市役所で[[コンピュータ]]・[[プログラマ]]として働いていたデイヴも参加していたが、程なくギタリストが脱退したことに伴い、デーモンのコルチェスターの[[パブリックスクール]]時代からの幼馴染であり、大学の同級生でもあったグレアムが加入。グレアムの加入によってバンドは飛躍的に質を上げたという。ちなみにコルチェスター時代デイヴとバンド仲間であったグレアムが、バンドのドラマーを探していたデーモンとデイヴを引き合わせている。さらに[[12月]]、デイヴが二人のメンバーを脱退させたのを機に、同じくグレアムの大学の友人であるアレックスが加入しバンドは4人編隊となり、それと同時にバンド名を[[J・D・サリンジャー|サリンジャー]]の小説の名前にちなんだ「'''シーモア'''」(Seymour)に変更。[[1989年]]の夏にシーモアとして最初のライブ活動を行った。そして同年[[11月]]、エキセントリックながらもポップなシーモアのライブを見た[[w:Food Records|フード・レコーズ]]の副社長、アンディ・ロスから契約のオファーを受ける。しかしロスはシーモアというバンド名を嫌って4人に改名を勧め、会社側が提示したバンド名の中からメンバー自身が選択し、[[1990年]][[3月]]、バンド「'''ブラー'''」(Blur)が誕生した。
結成後すぐに[[ザ・クランプス]]の前座としてイギリスをツアーして新曲を試し、[[10月]]にツアーが終わるのと同時に1stシングル「シーズ・ソー・ハイ」(全英48位)をリリースし、メジャーデビューを果たす<ref>同時に、学生だった三人は学籍を離れた。</ref>。翌[[1991年]][[4月]]、[[ザ・スミス]]のプロデューサー、スティーブン・ストリートを起用して何とか体裁を整えて完成させたという2ndシングル「ゼアズ・ノー・アザー・ウェイ」が全英8位のスマッシュヒットを記録すると同年[[8月]]、当時流行の[[シューゲイザー]]、[[マンチェスター・サウンド]]からの影響が色濃くみられるデビューアルバム『[[レジャー (ブラーのアルバム)|'''レジャー''']]』をリリースし、全英7位を獲得する。イギリスの音楽雑誌セレクト誌は「ザ・スミス以来最高のグループ」と彼らを評し、他の音楽誌からも「新人類による新世代[[ポップ・ミュージック|ポップ]]」、「ネオ・サイケの落とし子」などと評価されるなど、順調なキャリアの滑り出しを築いた。一方、この頃はまだ一部の評論家からは、流行のサウンドに乗って登場した時代のあだ花的なバンドとしか認識されていない部分もあったが、[[1996年]]公開の映画『[[トレインスポッティング]]』のサントラに、『レジャー』に収録されている「シング」が抜擢されるなど、後年再評価も受けている。
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[[File:Blur at Roskilde Festival 1999.jpg|thumb|right|250px|ロスキルド・フェスティバルでのデーモン(左)とアレックス(1999年7月)]]
[[1999年]][[3月]]、6thアルバム『[[13 (ブラーのアルバム)|'''13''']]』をリリース。長年の盟友スティーブン・ストリートと訣別し、[[マドンナ (歌手)|マドンナ]]などを手がけた[[w:William Orbit|ウィリアム・オービット]]をプロデューサーに起用。当時デーモンが傾倒していた[[プログレッシブ・ロック]]などからの影響が見られるノイジーな音の狂気に、バンドは更なるオルタナティブな独自性を獲得していった。先行シングル「[[テンダー (ブラーの曲)|テンダー]]」では[[ゴスペル (音楽)|ゴスペル]]、[[ソウル (音楽)|ソウル]]音楽を取り入れて新境地を見せている。全英1位を獲得。また、グレアムがリードボーカルを務めた「コーヒー&TV」は、牛乳パックがグレアムを捜し求めて奔走するという[[ミュージック・ビデオ|ビデオ・クリップ]]の愛らしさも話題となった。ちなみにこの頃よりグレアムが、シングルも含め[[ディスクジャケット|CDジャケット]]のアートワークを担当するようになる。
[[7月]]、初の[[苗場スキー場|苗場]]開催となった[[フジロック・フェスティバル]]にて2日目の大トリを務め、ブリットポップ全盛期の楽曲を多く含むベスト的なセットリストを披露。また同年[[8月]]、デビュー10周年記念の完全生産限定のシングルコレクション『'''ザ・10イヤーズ・リミテッド・エディション・アニバーサリー・ボックスセット'''』を発売すると、[[12月]]にはロンドンの[[ウェンブリー・アリーナ]]で、過去の全シングル曲をリリース順に演奏する「シングル・ナイト」ギグを行った。
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===『シンク・タンク』とグレアムの離脱===
[[2002年]]、レコード会社との契約通り4人は新アルバムのレコーディングに入るものの、デーモンが[[ノーマン・クック]]([[ファットボーイ・スリム]])をプロデューサーに起用したことに対しグレアムは不快感を示す。徐々にグレアムとデーモンの音楽性の相違は顕在化して作業は行き詰まり、グレアムがバンドとの距離を置き始めるようになる。一向にレコーディング・スタジオに現れないグレアムに痺れを切らしたバンドは、グレアム抜きで北アフリカの[[モロッコ]]・[[マラケシュ]]に飛びレコーディングを続行した。亀裂は決定的となり、[[2003年]]初頭にグレアムが正式に脱退を表明。そして[[5月]]にバンドは、ノーマン・クックや[[w:Ben Hillier|ベン・ヒリアー]]らのプロデュースによる、7thアルバム『'''[[シンク・タンク]]'''』をリリースした<ref>アルバムリリース前には、ミニマルなエレクトリック・ソング「ドント・ボム・フェン・ユー・アー・ザ・ボム」を、1000枚限定のホワイトレーベルの形態で、公式アナウンスなしにリリースしている。</ref>。モロッコでの経験から、サウンドはアフリカ音楽に加え[[アラブ音楽]]への傾倒も見せ、また同時にデーモンの反[[イラク戦争]]の活動を通じて、歌詞も政治的色彩を色濃くしていった。5作連続で全英1位を記録。ジャケットはグラフィティ・アーティストの[[バンクシー]]が手がけている。同年の[[サマーソニック]]ではヘッドライナーとして出演。元[[ザ・ヴァーヴ]]のサイモン・トングがグレアムの代わりのサポートライブ・ギタリストとしてツアーに参加した。
[[2003年]][[12月]]、天文学に興味のあったアレックスとデイヴの提案で、イギリスの[[火星探査機]] [[マーズ・エクスプレス]]に搭載された着陸機である[[ビーグル2]]にブラーの楽曲を火星で流すというプロジェクトに挑んだが、ビーグル2からの返答はなかった。尚CGで作られたこのビーグル2を基にして作ったPVは、[[1999年]]発売のDVD盤『ノー・ディスタンス・レフト・トゥ・ラン』に収録されている。
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そして[[8月12日]]、ロンドンのハイド・パークでロンドンオリンピックの閉会式と同時に開かれたロンドン五輪閉会記念コンサート「ベスト・オブ・ブリティッシュ」にヘッドライナーとして出演<ref>出演料はわずか300ポンドであったと言われる。</ref>。[[2009年]]の再結成ライブ以来、3年ぶりとなったハイド・パークでのライブには8万人もの観衆が集まり、翌々日には音源がライブ・アルバム『'''パークライヴ'''』としてダウンロード配信された。
また[[10月]]、公式サイトにて、[[2013年]][[7月]]に[[ベルギー]]の[[w:Werchter|ウェルフテル]]で行われるロック・フェスティバル、「[[w:Rock Werchter|ロック・ウェルフテル]]」にヘッドライナーとして出演することが発表された。
== ディスコグラフィー ==
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:アルバム未収録(『モダン・ライフ・イズ・ラビッシュ』日本盤にはボーナス・トラックとして収録)。ブラーの曲として初めてブラス・セクションが取り入れられた。スウェードの「ザ・ドラウナーズ」と共に「最初のブリットポップ・ソング」ともいわれる記念碑的一曲。バンドのお気に入りとしてライブで演奏されることが多い。
;フォー・トゥモロー([[1993年]])
:『モダン・ライフ・イズ・ラビッシュ』収録。2ndアルバム制作の終盤、フード社長の[[w:David Balfe|デビッド・バルフェ]]からシングル向きの曲がないと指摘され、デーモンがクリスマス・イブの夜に急きょ徹夜で作った曲。全英28位とセールス的には振るわなかったものの、XTCやキンクスを思わせる捻くれたメロディー、ストリングスとブラス・セクションなどを取り入れたポップなサウンドは、「ブリットポップ」の精神をもっとも良く表す曲であると言われる。サビの"La La La"は世界中の人々が歌えるようにと取り入れられた。[[2012年]]にシングル曲でモチーフとされた高速道路・ウエストウェイが、歌詞に登場する。
;ケミカル・ワールド([[1993年]])
:『モダン・ライフ・イズ・ラビッシュ』収録。「フォー・トゥモロー」に続き、レコード会社から今度はアメリカ向きのシングル曲がないと言われて作った曲。デーモンは皮肉もこめてデモ・トラックの名前を「アメリカーナ」にしていたという。
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