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'''今井 宗久'''(いまい そうきゅう、[[永正]]17年([[1520年]]) - [[文禄]]2年[[8月5日 (旧暦)|8月5日]]([[1593年]][[8月31日]]))は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[安土桃山時代]]にかけての[[堺]]の[[商人]]、茶人である。父は出羽守宗慶の三男。子に[[今井宗薫]]。家系は[[尼子氏]]の一族とも。[[千利休]]・[[津田宗及]]と共に茶湯の'''[[茶人人物一覧|天下三宗匠]]'''と称せられた。名は'''兼員'''、初名を久秀、通称を彦八郎のち彦右衛門。号は昨夢庵寿林。屋号は納屋。[[薙髪]]の後に'''宗久'''と名乗った。[[千利休]]・[[津田宗及]]と共に茶湯の[[茶人人物一覧|天下三宗匠]]と称せられた。
 
==来歴==
[[大和国]]([[奈良県]])[[今井町]]の出身。祖は近江[[佐々木氏]]の末裔で[[近江国]][[高島郡 (滋賀県)|高島郡]]今井市城を領したので、氏を今井と称した。堺に出て[[納屋宗次]]の居宅に身を寄せ、[[武野紹鴎]]に茶を学ぶ。やがて紹鴎の女婿となり、家財茶器などをことごとく譲り受けたという。[[天文 (日本)|天文]]23年([[1554年]])には[[大徳寺]]塔頭大僊院に百七十170貫を寄進している。初めは当時[[軍需品]]としての需要があった[[鹿皮]]などの[[皮製品]]([[甲冑]]製造などに用いる)の販売を扱っており、それによって財をなしたのみならず、各地の戦国大名とのつながりを深めていくきっかけとなった。
 
将軍・[[足利義昭]]にも茶湯をもって近侍し、[[織田信長]]の堺に対する矢銭徴課に当たっては、即座にこれに応じた。[[永禄]]11年([[1568年]])10月、上洛した信長と[[摂津国|摂津]]西成郡芥川で相見え、名物の松島の茶壺や紹鴎茄子などを献上した。いち早く信長の知己を得て、足利義昭からは[[大蔵卿]][[法印]]の位を授かる。同年、信長が堺に対して矢銭2万貫を課した際、[[会合衆]]たちが[[三好氏]]の力を背景に徹底抗戦の姿勢を見せたのに対し、宗久はこの要求を受け入れるよう信長と会合衆の仲介を行い、これに成功し摂津住吉郡に2千2百石の采地をうけた。
 
これ以降、宗久は信長に重用され、さまざまな特権を得る。永禄12年([[1569年]])には、堺近郊にある摂津五カ庄の塩・塩合物の徴収権と代官職、淀過書船の利用(淀川の通行権)を得て、[[元亀]]元年([[1570年]])には[[長谷川宗仁]]とともに[[生野銀山]]などの但馬銀山を支配する。また、代官領に[[河内鋳物師]]ら吹屋(鍛冶屋)を集め、[[鉄砲]]や火薬製造にも携わった。これらにより、会合衆の中でも抜き出た存在として堺での立場を確実なものにし、信長の天下統一を支えた。また、茶人としても千利休、津田宗及とともに信長の茶頭を務めた。
 
信長の死後には羽柴秀吉(後の[[豊臣秀吉]])にも仕え、堺の[[万代屋宗安]]、[[住吉屋宗無]](山岡宗無)とともに秀吉の[[御咄衆]]を務めた。また茶頭として[[天正]]15年([[1587年]])に秀吉が主催した[[聚楽第]]落成の交歓茶事[[北野大茶会]]にも協力をし、所蔵茶器が第4位を占めた。しかし、秀吉は宗久よりも新興の薬種商・[[小西隆佐]]や千利休らを重用したため、信長時代に浴したほどの地位ではなかったと考えられている。

文禄2年([[1593(1593]])に死去、享年73。著作に茶会記録の『今井宗久茶湯書抜』や『今井宗久日記』など。墓所は[[大阪府]][[堺市]]の[[臨江寺]]にある。
 
==その他==