「蜂屋頼隆」の版間の差分
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天正6年([[1578年]])4月、信忠の下、[[織田信雄|北畠信意]]・[[織田信包]]・[[織田信孝|神戸信孝]]・[[津田信澄]]・滝川一益・明智光秀・丹羽長秀らと石山本願寺を攻め、麦苗をなぎ払う<ref name="takakurayama">太田牛一 『信長公記』 巻十一 「高倉山西国陣の事」</ref>。同年5月、[[播磨国]]に従軍。織田信忠・北畠信雄・神戸信孝・[[林秀貞]]・長岡藤孝・佐久間信盛・丹羽長秀・滝川一益・明智光秀ほかと[[神吉城]]を攻める<ref name="takakurayama"/>。同年11月に[[荒木村重]]の謀反が明らかになると、滝川・明智・丹羽ほかとともに荒木方の[[茨木城]]に対する付け城大田郷砦の普請を命ぜられる。普請が完成すると、一益らとともに[[有岡城の戦い]]の先陣を務める<ref>太田牛一 『信長公記』 巻十一 「荒木摂津守逆心を企て並びに伴天連の事」</ref>。同年12月には村重の籠城する[[伊丹城]](有岡城)は付け城で包囲され、頼隆はそのひとつの塚口郷に、丹羽・[[蒲生氏郷]]・[[高山右近]]・神戸信孝とともに在番した<ref>太田牛一 『信長公記』 巻十一 「丹波国波多野館取り巻くの事」</ref>。
天正7年([[1579年]])12月、信長が荒木村重や重臣の脱走後に伊丹城に残されていた妻子の処刑を命じ、頼隆は滝川一益・丹羽長秀とともにその連行に当たった<ref>太田牛一 『信長公記』 巻十二 「伊丹城相果たし、御成敗の事」</ref>。 また、この年死去した大津長昌の正室(丹羽長秀の妹)を頼隆はのちに正妻に迎えており、その縁もあって、子のいない頼隆は長秀の四男(直政)を養子に迎えている。
天正8年([[1580年]])、佐久間信盛・[[佐久間信栄|信栄]]親子の追放後に、[[和泉国]]一国の支配権をほぼ任されている。なお、同時期に和泉で活動していたと考えられる[[織田信張]]との関係は不明である。
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