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'''小平 裕'''(こひら ゆたか、[[1938年]][[10月31日]] - )は、[[日本]]の[[映画監督]]。[[東京都]][[新宿区]]出身。
{{wikify|date=2012年11月7日 (水) 16:12 (UTC)}}
 
== 監督・脚本 ==
小平裕
日本* ポルノ映画帝王(1971年)助監督
* [[女囚701号/さそり]](1972年)助監督
東京都新宿区出身
* [[ボディガード牙]] 必殺三角飛び(1973年)助監督
東京大学文学部美学科卒業
* [[女囚さそりシリーズ|女囚さそり 701号怨み節]](1973年)助監督
東映株式会社入社
* 夜の演歌 しのび恋(1974年)助監督
東京撮影所助監督
* [[仁義の墓場]](1975年)助監督
今でこそ自らの企画・脚本で監督デビューは珍しくないが、小平監督デビューの昭和50年の頃は大手映画会社の東宝、松竹、東映、日活、でも処女作を自らの脚本でスタートした監督は数少ない。梶芽衣子の【さそりシリーズ】の伊藤俊也監督以来の大型新人と期待を集め【青い性】で登場した。不幸にも最初に書いた脚本(共同脚本)が会社に受けいられず、同じタイトルで、今度は一人で1週間で書き上げたシナリオでデビューするという波乱のスタートを切った。東映の首脳陣の評価はいまいちだったが松竹の首脳には「東映で珍しい青春物が現れた」と驚きをもって迎えられたり、東映試写室で若手社員の拍手喝采はいまや伝説になっている。大阪の週間ファイトの映画記者がその年のベストワンにも推したという。
* 青い性(1975年)監督・脚本
その後会社から与えられるお仕着せの企画モノをこなしたが【喧嘩道】の表現の過激さ故の興行成績の悪さから暫しホサれることとなり、以降企画に恵まれず、TVやVシネマの世界へ。久々の外部で撮った映画【ぼくとぼくらの夏】も【青い性】以来の高い評価であった。
* 東京ディープスロート夫人(1975年)脚本
今回の【フェニックスの夜が明けて】は彼の住んでいるシャッター道り的イメージと東映OBの草野球チーム・半身退化ースと大震災のイメージが混濁一体化し現在の状況に切り込むシャープなテーマを備えつつも、見事にエンターテイメントにまとめ上げている。
* 必殺女拳士(1976年)監督
彼の25歳の時のシナリオ【鼠、その傷を癒せ】も当時の東映内組合分裂闘争と、ある地方の村がダム建設で埋没する運命のハザマで揺れる人々を嗤うように立ち退き料を狙って入村するやくざとの確執を、『去るも地獄、残るも地獄』というテーマで骨太に描いたエンターテイメントであった。
* 爆発! 750cc(ナナハン)族(1976年)監督
【フェニックス夜が明けて】の前に書かれたシナリオ【廃校の彼方に】(生きることが解らなくなり妻子を捨てた初老の男と恋人の事故死で声の出なくなった歌手志望の若い女が廃校でふれあいそれぞれが新しい生き方を見出してゆく・未映画化)も含めて考えると彼のテーマは映画界に入って以来ぶれていないのだ。
* [[新・女囚さそり 701号]](1976年)監督
彼の映画に向かうときの座右の銘が、江戸時代の俳人・松尾芭蕉の高弟其角の俳句を作る際の心得『高く悟って俗に帰れ』であることも肯けるところである。
* 新宿酔いどれ番地 人斬り鉄(1977年)監督・脚本
* 新・女囚さそり 特殊房X(エックス)(1977年)監督
* 喧嘩道(1979年)監督・脚本
* 真紅な動輪(1982年)監督・脚本
* [[ヘッドフォン・ララバイ]](1983年)脚本
* [[パンツの穴#第2弾|パンツの穴 花柄畑でインプット]](1985年)監督
* [[ぼくと、ぼくらの夏#映画|ぼくと、ぼくらの夏]](1990年)監督
* チンピラ仁義 極楽とんぼ(1994年)監督・脚本
* チンピラ仁義 極楽とんぼ2(1995年)監督
* タブー 赫いためいき(1997年)監督
 
== 外部リンク ==
*[http://www.jmdb.ne.jp/person/p0179090.htm 日本映画データベース 小平裕]
 
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[[Category:日本の映画監督]]
[[Category:東映の人物]]
[[Category:東京都出身の人物]]
[[Category:1938年生]]
[[Category:存命人物]]
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