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弥栄 (会話 | 投稿記録)
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== 概要 ==
当社は正面参道からいったん石段を上がり、総門を潜ったところから石段を下ると社殿がある、いわゆる「下り宮」と呼ばれる特異な形態を有している。『全国一の宮めぐり』によれば「下り参りの宮」の通称で呼ばれると言う。
 
== 祭神 ==
祭神は以下の2柱。
* '''[[経津主神]]'''
:: [[葦原中国]](日本の異称)平定に功績があったとされる神。
* '''[[比売大神|姫大神]]'''
:: 一説には、綾女庄(当地の古い呼称)の養蚕機織の神とされる。
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社伝によると、創建は[[安閑天皇]]元年([[531年]])[[3月15日]]、鷺宮(現在の[[安中市]])に[[物部氏|物部姓]][[磯部氏]]が氏神である経津主神を祀り、[[荒船山]]に発する[[鏑川]]の流域で鷺宮の南方に位置する蓬ヶ丘綾女谷に社を定めたのが始まりといわれる。その後、[[天武天皇]]2年([[私年号]]では[[白鳳]]2年、[[673年]])に最初の[[奉幣]]が行われた。
 
現在の社名「'''一之宮貫前神社'''」は、[[旧社格]]廃止に伴い改称したものであり、[[六国史]]をはじめとする古書には、「'''抜鉾神社'''」(ぬきほこじんじゃ)と「'''貫前神社'''」(ぬきさきじんじゃ)の2つの名で記される(詳細は後述)。この2社ともが現神社の前身であるとすると、最初に記録に登場するのは[[大同 (日本)|大同]]元年([[806年]])、『新鈔格勅符抄』の神封部にある「上野抜鉾神 二戸」の記述である。
 
六国史では以下のように記される。
:* [[承和 (日本)|承和]]6年([[839年]])6月[[甲申]]条<ref>6月[[甲申]]の日となっているが、承和6年は6月15日が[[甲子]]なので、この月には甲申の日が無いように思われる。</ref>、[[赤城神社|赤城神]]、伊賀保神と並んで拔鋒神が[[従五位|従五位下]]を授位(『[[続日本後紀]]』)。
:* [[貞観 (日本)|貞観]]元年([[859年]])1月27日条、[[正五位|正五位下]][[勲等|勳八等]]の貫前神を[[従四位|従四位下]]に陞叙(『[[日本三代実録]]』)。 - 六国史の記事に抜鉾神社の名が登場するのはこの記述のみ。
:* 貞観9年([[867年]])6月20日条、従四位下勳八等の貫前神を[[従四位|従四位上]]に陞叙(『日本三代実録』)。
:* 貞観18年([[876年]])4月10日条、従四位上の貫前神を[[正四位|正四位下]]に陞叙(『日本三代実録』)。
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さらに[[延喜]]16年([[916年]])1月に[[従二位|従二位]]へ陞叙され(『[[扶桑略記]]』)、[[延長 (元号)|延長]]5年([[927年]])には『[[延喜式神名帳]]』に貫前神社が[[名神大社|名神大]]に列格される。
 
[[宇多天皇]]の御代、[[仁和]]4年([[888年]])に一代一度の奉幣として[[大神宝使]]を遣わすこととしたが、当神社へは[[寛仁]]元年([[1017年]])[[後一条天皇]]即位の際に遣わされている<ref>『[[左経記]]』[[寛仁]]元年([[1017年]])10月2日の条の記述よれば、[[東山道]]上野'''貫前'''に紫綾蓋1蓋、平文野剣1腰、赤漆弓1張、箭(矢)4筋、平文鉾1本、五寸鏡1面、平文麻桶1口、平文線柱1本を神宝として奉した記載されている。みに『神道史大辞典』(薗田稔・高橋政宣編、吉川弘文館、2004年7月)には、大神宝使とは由緒ある諸社に対し天皇即位の由を奉告するため大神宝大幣帛を奉る使いで、中世には派遣が途絶えてしまったとの説明がある。</ref>。[[長元]]3年([[1030年]]) - 4年([[1031年]])に成立したと推測されている『上野国交替実録帳』には「[[正一位]]勲十二等抜鉾大明神社」とあって、この頃までには神階が正一位に進んでいたと思われる<ref>『日本の神々 -神社と聖地- 11 関東』では「正一位勲十二等と言う[[神階]]はおかしいのではないか」と述べている。</ref>。
 
[[長元]]3年([[1030年]]) - 4年([[1031年]])に成立とされる『上野国交替実録帳』には「[[正一位]]勲十二等抜鉾大明神社」とあり、当時既に神階が正一位に達していたと思われる<ref>『日本の神々 -神社と聖地- 11 関東』では「正一位勲十二等と言う[[神階]]はおかしいのではないか」と述べている。</ref>。
『[[本朝続文粋]]』の記述によれば、[[康和]]2年([[1100年]])4月に上野国[[目代]]平周真が神前に剣を奉じて降雨の祈願を行っている。この時の奉献の文を[[国司]]上野介[[藤原敦基]]が執筆しており、このことから当神社が国司による特別の崇敬を受け、一宮的機能が[[12世紀]]初頭には確立した、と考えられる<ref name="kiso">『中世諸国一宮制の基礎的研究』</ref>。
 
『[[本朝続文粋]]』の記述によれば、[[康和]]2年([[1100年]])4月に上野国[[目代]]平周真が神前に剣を奉じて降雨の祈願を行っている。この時の奉献の文を[[国司]]上野介[[藤原敦基]]が執筆しており、このことから当神社が国司による特別の崇敬を受け、一宮的機能が[[12世紀]]初頭には確立した、と考えられる<ref name="kiso">『中世諸国一宮制の基礎的研究』</ref>。
[[室町時代]]末期の西上州は越後[[上杉氏|上杉]]・相模[[後北条氏|後北条]]・甲斐[[武田氏|武田]]の各氏に支配された。当神社は各氏から庇護を受け、特に武田氏は[[譜代]][[家老]]の[[原昌胤]]が[[取次]]を務め、造替費用をの棟別に課して、上野国を越えた策を講じたとされる<ref name="kiso" />。
 
中世において、当社は[[源頼義]]・[[源義家|義家]]父子を始めとする武家の崇敬を集め、[[室町時代]]末期の西上州は越後[[上杉氏|上杉]]・相模[[後北条氏|後北条]]・甲斐[[武田氏|武田]]の各氏に支配された。当神社は各氏から際も庇護を受け、特に武田氏は[[譜代]][[家老]]の[[原昌胤]]が[[取次]]を務め、造替費用を棟別に課して、上野国を越えた策を講じたとされる<ref name="kiso" />。
 
[[江戸時代]]には[[徳川氏|徳川家]]の庇護を受け、社殿の再建などが行われた。
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; 2神2社説
: 抜鉾神を祀る神社と貫前神を祀る神社は別々の神社であったと言う説。
: 『日本の神々 -神社と聖地- 11 関東』では、「貫前」の社名は[[明治維新]]後に「抜鉾」から改められたもので、本来は「貫前」と「抜鉾」の2神2社であったものが「抜鉾」時代に2神1社となり、明治になって公式には1神1社になった、と述べている。さらに続けて、実際には現在も男・女2神を祀り、2神1社の形は残されている、とも述べている。同書では、[[朱雀天皇]]の[[承平 (日本)|承平年間]]([[931年]] - [[937年]])[[源順]]が編んだ『[[和名類聚抄|和名抄]]』巻7[[上野国]][[甘楽郡]]の項に「貫前郷」と「抜鉾郷」の名が見えることから、貫前神社と抜鉾神社は別地に建っていたと考察し、[[長元]]3年([[1030年]]) - 4年([[1031年]])の『上野国交替実録帳』に「正一位勲十二等抜鉾大明神社」とあって「貫前」の名が無いこと、正一位で勲十二等と言う[[神階]]のおかしさ、この2点より『延喜式神名帳』成立後から『上野国交替実録帳』成立以前の間に「貫前」と「抜鉾」混同があっされものと推測している。
 
; 1神1社説
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</gallery>
 
本殿、拝殿、楼門は国の[[重要文化財]]に指定されている。これらの社殿は[[寛永]]12年([[1635年]])[[徳川家光]]による再建で、[[徳川綱吉]]が後に大規模な修して現在に至る行った
* 本殿
:: 「貫前造」と呼ばれる特殊な造りで、内部が2階構造になっており、2階部分に神座がある。