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GDSTCB (会話 | 投稿記録)
批判を受けた作戦: ==エピソード==への移転など
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=== 「敬遠」をめぐる作戦 ===
1992年8月16日に行われた明徳義塾対星稜の試合では明徳義塾の監督は星稜の4番松井秀喜に対し5打席すべてを敬遠するという作戦に出た。試合は明徳義塾が勝利したが試合終了直後から試合内容に納得のいかない観客から「帰れ」コールや[[ブーイング]]が起き、これによって校歌斉唱の声が潰されただけではなく、高野連が異例の声明を発表する事態になる。監督は試合終了後に「高校生の中に一人プロが混じっていた。勝つために(敬遠を)指示した」と記者団に答えた。スポーツ紙、テレビニュース、一般紙は明徳義塾の行動に対する非難を行い、プロ野球経験者は非難、擁護と意見が二分した。
 
:{{main|松井秀喜5打席連続敬遠}}
 
=== 雨天ノーゲームを巡る遅延行為と故意遅延プレー ===
2006年に行われた高校野球県秋田県予選準決勝の本荘対秋田戦で行われた、雨天ノーゲームを巡る遅延行為と故意遅延プレーの発生。9-1と本荘がリードしていた5回裏に、雨天による一時中断があった。高野連のルールでは7回が終了しない状態では雨天ノーゲームとなるため、秋田は雨天ノーゲームを狙い、打者が一球ごとに打席を外す、投球テンポを遅くする、送球されたボールを盗塁したランナーを故意にタッチせず進塁させるなどの遅延行為を行った。本荘はそれに対抗し、監督の指示でわざとアウトになるようなプレー(敬遠球への空振りや無謀な盗塁)を行った(試合は本荘がコールド勝ち)。この試合では本荘の行為のみが問題とされ始末書の提出を県高野連から求められたが、秋田へは何の処分もなかった<ref>サンケイスポーツ2006年7月23日付など</ref>。
 
=== 甲子園出場を巡る訴訟 ===
帝京商工高等学校(現・帝京大学高等学校)が1969年の秋の東京大会において準優勝、東京都高野連は翌年の第42回の選抜大会(1970年)に同校を推薦した。しかし、高野連の選出委員会は都大会後、帝京商工が火災を起こし野球部の資料が喪失したことから戦力分析が不可能と判断、帝京商工を選出しなかった。
帝京商工は不選出の理由を不満として1970年2月20日、高野連を相手取り代表決定効力停止の仮処分を大阪地方裁判所に申し立てた。訴訟を受けて東京都高野連は帝京商工の対外試合禁止を決定。さらにこの対外試合禁止に対し帝京商工側が東京地方裁判所に対外試合禁止撤回の仮処分を申請するなど訴訟合戦に発展した。
帝京商工側は仮処分申請の理由として「選抜落選や試合禁止は野球選手としての就職が不利になる」と話したことから高校野球において前述の考え方の是非について議論を巻き起こした。3月9日には高野連側が対外試合禁止処分を撤回、3月12日には大阪地方裁判所で申立ての却下、帝京商工側も対外試合禁止処分の撤回を受け、東京地方裁判所に対する申立てを取り下げ、一連の問題は決着した。なお第42回大会には、東京都からは東京大会優勝の日大三高と都大会4位の堀越高等学校が出場した。
 
=== 作戦としての抗議を公言 ===