削除された内容 追加された内容
Cojot (会話 | 投稿記録)
95行目:
武装が完了し、海軍当局による検査もパスした開陽は、オランダ海軍大尉ディノーに引き渡され、15日間の航海試験を経て、[[1866年]](慶応2年)10月、ようやく完成した。蒸気機関のみでの巡航速度18マイル、クルップ砲の海上試射距離3900メートルなどの高い試験結果を残し、ディノーは「オランダ海軍にも開陽に勝る軍艦は無い」と断言した<ref name="kaiyo_077">[[#柏倉|柏倉p.77]]</ref><ref group="†">オランダ外務省、海軍省の保証が付いた開陽の試運転証明書は現在、オランダ国立文書館に所蔵されている。</ref>。
[[ファイル:Kaishu Katsu 2.jpg|thumb|160px|軍艦奉行・勝海舟]]
開陽は日本への引渡しのため、[[1866年]](慶応2年)10月25日、フリッシンゲンを出港した。この処女航海には、内田ら9人の留学生が同乗し、ディノーの指揮により、帰国の途についた<ref group="†">赤松、林、伊東は3年の留学延期、西、津田は1年前に修了し帰国、大川はアムステルダムで病死した。</ref>。[[イギリス海峡]]から[[大西洋]]を抜けるまでの18日間、暴風雨に見舞われたが、開陽は平然と進み、出港52日目に[[リオデジャネイロ市|リオデジャネイロ]]に到着した。補給を済ませ、87日目にはインド洋に入り、[[1867年]](慶応3年)2月20日、[[アンボン|アンボイナ]]へ到着した。再び補給を行い、3月6日、横浜を目指して出航、[[1867年]](慶応3年)3月26日10時30分、無事入港した。入港後すぐ[[軍艦奉行]][[勝海舟]]らに出迎えられ、榎本らは久々の再会を喜び合った。
 
オランダと幕府の支払い交渉や手続きが行われている間、日本での乗組員の編成や訓練が行われた。勝は榎本は軍艦頭並、澤を軍艦役並に任命し、乗組員の採用と養成を指示した。残っていた手続きごとが全て完了した[[1867年]](慶応3年)5月20日、開陽の引渡し式が行われ、オランダ公使ボルス・ブルーグと[[海軍奉行]][[織田信愛|織田対馬守]]が交換文書にサインし、正式に引き渡された。