「宮本和知」の版間の差分
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[[山口県]][[下関市]][[彦島]]出身。[[中学校]]時代は[[サッカー]]部で活躍<ref name=sponichi200908>スポニチアネックス2009年8月 「【8月5日】1989年(平元) ヒジがうずきながら160球 5年目宮本和知、初完投勝利」 [http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_09august/KFullNormal20090801184.html]</ref>、[[山口県立下関工業高等学校]]時代から野球を始め、投手になったのは高校2年時だった。高校卒業後、[[社会人野球]]の[[川崎製鉄水島硬式野球部|川崎製鉄水島製鉄所野球部]]へ入団。
[[1984年]]、公開競技として初めて開催された[[ロサンゼルスオリンピック (1984年)|ロサンゼルスオリンピック]]・野球で[[金メダル]]獲得に貢献した。同年の[[プロ野球ドラフト会議]]で[[読売ジャイアンツ]]から3位指名を受け
=== プロ入り後 ===
入団当時
しかし、[[藤田元司]]新監督が就任した[[1989年]]、先発要員としてシーズン後半から一軍に定着。[[先発投手|先発]]としてプロ入り初完投・初完封を記録し<ref name=sponichi200908></ref>、5勝をマークした。[[10月6日]]、対[[横浜DeNAベイスターズ|
[[1993年]]に就任した[[長嶋茂雄]]監督のもとでも先発投手陣に加わったが、この年は5勝、翌[[1994年]]も4勝とやや不調に終わった。しかし、1995年は先発5・6番手として、ローテの谷間を担い、7連勝を記録するなど復調を果たした。1996年は調整不足で出遅れるも5月以降は安定した投球を見せた。優勝決定試合の10月6日、対中日戦(ナゴヤ球場最後の公式戦)で先発したが、[[矢野燿大|矢野輝弘]]に同点本塁打を浴びる等、早々と降板させられた。それでも、[[桑田真澄]]・[[槙原寛己]]らが故障で離脱した先発陣を支え、長嶋監督が命名した「レフティーズ」<ref>他に[[阿波野秀幸]]・[[河野博文]]・[[川口和久]]。後に[[岡島秀樹]]・[[小野仁]]の台頭をきっかけに阿波野は[[トレード]]で[[移籍]]し、事実上のレフティーズ[[解散]]となった。</ref>の一人として優勝に大きく貢献した。なお、同年には子育ての事で意見が合わなかったのが理由として8年間結婚していた前妻と離婚。1女は宮本が引き取り、子育ての為に山口から両親を呼び寄せた。
[[1997年]]には、4月23日の対中日戦で、[[ナゴヤドーム]]公式戦初の完封勝利を記録する<ref>翌日は同い年の同僚[[槙原寛己]]が完封勝利をあげている。</ref>等、まずまずのスタートを切った。しかし、開幕2日目に追突事故で頚椎を痛めた事が原因となり<ref>ただし、痛めた当日は登板回避した[[エリック・ヒルマン]]に代わり先発として登板した。</ref>、シーズンを通しては精彩を欠いた。事故の後遺症の影響もあり同年限りで現役引退を表明。[[引退試合]]となった9月28日の対中日戦([[東京ドーム]])では、先発[[バルビーノ・ガルベス]]が8回途中まで無安打の快投を続けたために、宮本の登板が危ぶまれ、ブルペンでの投球練習だけではなく、代打出場にも備えて打撃練習も行っている姿が全国生中継された。それでも、9回表2死の場面で登板し、[[レオ・ゴメス|ゴメス]]を抑えて、有終の美を飾った。
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[[2007年]]、[[芸能人女子フットサル]]チーム「[[XANADU loves NHC]]」の監督に就任。
[[2008年]]
==詳細情報==
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