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[[衆議院議員]]、[[参議院議員]]。[[環境庁]]長官、[[農林大臣]]を歴任した。
 
== い立ち ==
=== 生い立ち ===
[[仙台市]]元常磐町1番地(現在の[[仙台市民会館]]付近)に<ref name="niko">[http://www.sendainiko.com/hyaku007.html 花とヒューマニズム(大石武一)] 『仙台二高卒業生のページ』 中島信吾、2010年5月7日閲覧</ref> 、後に衆議院議員を務めた[[大石倫治]]の長男として生まれた。宮城県男子師範附属小学校から、宮城県立仙台第二中学校(現在の[[宮城県仙台第二高等学校|仙台第二高等学校]])、[[第二高等学校 (旧制)|第二高等学校]]に進学したが、中学校では[[テニス]]、高等学校では[[野球]]に熱中した<ref name="niko"/>。高校時代には[[結核|結核性]]の[[肋膜炎]]に罹患して留年、翌年には[[腹膜炎]]を患った<ref name="niko"/>。[[1935年]]([[昭和]]10年)に[[東北帝国大学]][[医学部]]を卒業、[[1940年]](昭和15年)に同大学[[大学院]]医学博士課程を修了した。
 
これら医学の専攻は父・倫治の勧めに従ったものであったが、大石自身は少年時代から動植物に関心があり、大学では[[植物学]]を専学ぶのが本来の希望であった<ref name="niko"/>。[[医師]]となった後には東北帝国大学[[医学部]]や、[[国立仙台病院]]などに勤務し、[[終戦]]時点での大学病院の役職は[[助手]]であった<ref name="niko"/>。
 
=== 衆議院議員 ===
[[1948年]](昭和23年)春、[[第1次吉田内閣]]で農林政務次官に在任中だった父・倫治が急死した。倫治は死亡する2時間前、大石に、「立派な政治家になって、私のやり残した仕事を仕上げよ」と告げた<ref name="niko"/>。その遺志を継いだ大石は1948年(昭和23年)[[5月21日]]に行われた宮城2区の[[補欠選挙]]に立候補<ref>[http://www.ndl.go.jp/jp/data/publication/refer/200512_659/065905.pdf 戦後の補欠選挙] 佐藤令</ref>、初当選して衆議院議員に就任した。
 
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議員在任中は自然保護議員連盟会長のほか、国際軍縮促進議員連盟会長として軍縮、平和運動を議員外交で繰り広げ、[[1968年]](昭和43年)のピースフォーラム(ストックホルム)では、平和演説を行った<ref name="niko"/>。
 
=== 晩年 ===
政界引退後は馬事畜産会館館長、[[全国畜産農業協同組合連合会]]会長理事、[[全国乗馬クラブ振興協会]]会長、医家芸術クラブ理事長、宮城県畜産農業協同組合連合会会長理事などの公職を務めたほか、[[緑の地球防衛基金]]会長、東京都ごみ焼却工場建設反対署名運動、尾瀬を守る懇話会代表、[[環境政党]]「みどりといのちのネットワーク」推薦人など、市民運動の第一線に立ち続けた。また、[[岐阜県]][[長良川河口堰]]建設や[[熊本県]][[川辺川ダム]]問題に関わり、環境問題や公共事業の問題に積極的に関与した。
 
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{{環境大臣}}
{{農林水産大臣}}
 
{{DEFAULTSORT:おおいし ふいち}}
[[Category:日本の閣僚経験者]]