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Kodama1975 (会話 | 投稿記録)
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'''麻生'''の地名の由来は、古くから[[麻]]が自生しており、[[8世紀]]には[[朝廷]]に[[麻布]]を納めていたという記録が残っている点からである。区名は一般公募され、川崎市に編入されるまで同地域の多くを占めた[[都筑郡]][[柿生村]]に由来する「柿生」が最も多い結果であったが、歴史の古さから麻生に決定した。'''あさおく'''と読むのが正しいが、'''あそうく'''と間違って読まれることが多い<ref>ただし「上麻生」「下麻生」は慣用的に「あそう」と読まれることもある。</ref>。
 
南北に長い川崎市において、行政・商業の中心となっている川崎区(市の南東部)とは最も離れており、移動は非常に時間がかかる。そのため大半のことは区内で事足りるよう、区のほぼ中央の[[丘陵]]を開拓[[小田急電鉄|小田急]]の[[新百合ヶ丘駅]]を開設。付近を川崎市の北部[[副都心]]と位置づけて、区役所,税務署などの公共施設、デパート,映画館など様々な商業施設が充実したする近代都市としての開発が実施さ行われた<ref>このうち大規模商業施設の誘致に関しては[[セゾングループ|西武セゾングループ]]の進出撤回などで出遅れたが、現在では[[ミロード|新百合ヶ丘エルミロード]]や[[イオン新百合ヶ丘店|サティービブレ新百合ヶ丘店]]の営業により充実が図られている。</ref>。[[1998年]](平成10年)度には[[建設省]](現・[[国土交通省]])の[[都市景観100選]]を受賞した。これだけ大きな街でありながら、駅周辺では[[風俗営業]]を禁止しており、遊技場([[パチンコ]]店)の一店だけに留まっている珍しい街である。南北交通の強化を図るため、川崎市では[[川崎縦貫高速鉄道]](市営地下鉄)の建設構想を[[1960年代]]から提起しているが、未だに着工には至っていない。
[[Image:Aerophotograph Shin-yurigaoka Sta 1974 ja.jpg|200|Aerophotograph Shin-yurigaoka Sta 1989 ja.jpg|right|250px|thumb|1974年頃の新百合ヶ丘駅付近{{国土航空写真}}]]
 
商業だけでなく、[[小田急小田原線]]・[[小田急多摩線|多摩線]]を軸にした[[東京]]の[[ベッドタウン]]として発展が続いている。元々、同区域は[[津久井街道]](現在の世田谷町田線)が[[五反田川 (神奈川県)|五反田川]]や[[麻生川]]に沿って伸び、また[[1927年]](昭和2年)の小田急線開業によって交通の不便が改善され、その沿線には集落が形成されていた。さらに1960年代に入ると現在の麻生区域の丘陵地帯では[[日本住宅公団]](現在の[[都市再生機構]])による[[団地]]建設を皮切りに急速な住宅地整備が進められ地域内の人口は急増した。
ただ、それ以外の大半は山林に覆われ、人口も少なかった<ref>同区内の小学校は現在18校あるが(該当項目参照)、[[1873年]](明治6年)設立の柿生小学校と[[1875年]](明治8年)設立の西生田小学校以外に次ぐ歴史を持つのは[[1964年]](昭和39年)設立の百合丘小学校で、以後の各校はいずれもその後の人口急増期に設立されている。出典:川崎市教育センター 市立学校紹介 [http://www.keins.city.kawasaki.jp/school/index.html]</ref>。しかし[[19761974年]](昭和5149年)に多摩線が開業したことで沿線付近が住宅地として開発され、また[[2000年]](平成12年)以降には多摩線を意識した運行ダイヤが組まれ都心へのアクセスの向上したことで、[[小田急不動産]]などのデベロッパーが積極的な開発・販売をした[[新興住宅地]]が多く存在する。
その為、川崎市の中で社会増が最も多い区である<ref>{{PDFlink|http://www.city.kawasaki.jp/73asao/73soumucmsfiles/basiscontents/kusei0000029/kusei/pdf29650/h20_p2.pdf 川崎市ホームページ「あさお区民の動向」}}</ref>。
 
区南部には、日本最古の[[柿|甘柿]]の品種と言われている[[禅寺丸柿]]が発見された王禅寺地区があり「柿生」の名の由来となった。区北部の黒川地区には、昔ながらの[[里山]]が残っている。