「マリオ・ランツァ」の版間の差分

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Mutsumi623 (会話 | 投稿記録)
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== キャリア ==
=== 歌手として ===
父の影響で、幼少の頃から音楽に興味を持ち、歌唱やステージに興味を抱いていた。既に[[1932年]]に舞台に出演し、[[1940年]]にはプライベートレコーディングを行なっている。<br />
[[セルゲイ・クーセヴィツキー|クーセヴィツキー]]に推されオペラへの出演を果たし、歌手への道を歩み始めたばかりの[[1943年]]に招集されるものの、左目の視力が弱かったため戦場の第一線に呼ばれることは無く、慰問隊に加わり、としてフランク・ュッサーのバラエティーショーに ”On the Beam” に加わった。この頃、既に体重は118㎏を越している。 [[1943年]]秋には、若い兵士たちのやり取りを題材にして米陸軍が資金調達と啓発広報・士気高揚を狙って制作した[[:en:Moss Hart|モス・ハート]]によるミュージカル ”[[:en:Winged Victory (play)|Winged Victory]]” のコーラス隊に加わる。同作品は同年11月に[[ブロードウェイ (ニューヨーク)|ブロードウェイ]]を始めとする米各地で上演され、後に[[20世紀フォックス]]によって[[ジョージ・キューカー]]監督の下にを努め[[:en:Winged Victory (film)|同タイトル]]映画化されている。なお、映画化の際に、ランツァはノンクレジットで出演している。<br />
[[1945年]]に正式に除隊後、商業歌手として未熟だったランツァは、RCAレコードの専属歌手としてトレーニングを重ね、その後に長い付き合いとなったコロムビアアーティストマネージメントのオペラツアー部門の監督であり指揮者である[[:en:Peter Herman Adler|ペーター・ヘルマン・アドラー(英語)]]と出会う。<ref>アドラーは1951年のタイム誌に、「ランツァがあと10年きちんとした歌劇場で研鑽していれば、比肩のない歌手になっていただろう」と述懐している。</ref>
1945年10月に[[CBS|CBSラジオ]]と契約し、 "Great Moments in Music"<ref>[[アルトゥーロ・トスカニーニ|トスカニーニ]]のお気に入りで、当時RCAの看板テノール歌手だった[[ジャン・ピアース]]等の出演していた人気音楽番組</ref> に出演。この番組で、ランツァの全米における人気と知名度は確固たるものとなった。[[ベニャミーノ・ジーリ|ジーリ]]の師事したエンリコ・ロサァティも「ジーリ以来34年間、私はこのような声を待っていた。」とランツァを高く評価し、15ヶ月に亘る指導を施した。[[テノール#分類|テノーレ・リリコ・スピント]]としてのランツァはここで名実ともに確立された。<br />
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この後、1950年代前半は、映画やテレビ・ラジオへの出演とレコード歌手としての日々が続き、オペラ歌手として出演を果たす機会がやってきたのは晩年、イタリアへの移住後。1958年に[[ローマ歌劇場]]の支配人、エヴェン・ヴィターレは、本格的なオペラへの出演を画策し、[[1960年]]-[[1961年|61年]]シーズンに[[トスカ]]のカヴァラドッシ役での出演を依頼したが、叶わぬ夢に終わっている。<br />
1958年、イタリア移住後にも欧州でコンサートツアーを行い、[[ベルギー]]・[[オランダ]]・[[フランス]]を訪れたが概ね成功裏に終了、1958年4月13日に[[ドイツ]]の[[キール]]で行われた演奏<ref>Lübecker Nachrichten, April 14th 1958</ref>は事実上、公の場における最後のリサイタルとなった。<br />
 
 
=== 映画への出演 ===