「足利義栄」の版間の差分
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|生誕=[[天文 (元号)|天文]]7年([[1538年]])
|死没=[[永禄]]11年([[1568年]])
|改名=義親
|別名=阿州公方<ref>『[[言継卿記]]』永禄9年9月25日条</ref><ref>『[[細川両家記]]』永禄9年9月23日条</ref>、とんたのふけ<ref>『[[御湯殿上日記]]』永禄9年11月7日条</ref>(富田武家<ref>『言継卿記』永禄9年12月11日条</ref>)
|戒名=光徳院玉山
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== 生涯 ==
天文7年(1538年)、[[足利将軍家]]の一族で元[[堺公方]]・[[足利義維]]([[平島公方]])の長男として[[阿波国]]平島荘で生まれる(生年には天文9年([[1540年]])説もある)。初名
永禄8年([[1565年]])、[[永禄の変]]で従兄の13代将軍[[足利義輝|義輝]]が[[三好三人衆]]・[[松永久秀]]に殺害されると、三好三人衆や久秀らによって、[[中風]]で将軍の任に堪えられないであろうとされた父・義冬(義維)の代わりに、将軍候補として擁立された。しかし同年11月から三人衆と久秀が権力抗争を開始すると、義親は12月に三人衆に強要されて久秀討伐令を出すことを余儀なくされた。
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