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|result=進行中
|combatant1={{Flagicon|Uganda}} [[国民抵抗軍]]</br>
{{Flagicon|Uganda}} {{仮リンク|ウガンダ人民国防軍|en|Uganda People's Defence Force}}</br>
[[矢集団]]
|combatant2={{仮リンク|聖霊運動 (ウガンダ)|en|Holy Spirit Movement|label=聖霊運動}}</br>
{{仮リンク|ウガンダ人民民主軍|en|Uganda People's Democratic Army}}</br>
[[ファイル:Flag of Lord's Resistance Army.svg|20px|LRAの旗]] 神の抵抗軍
|commander1=[[ヨウェリ・ムセベニ|ヨウェリ・ムセヴェニ]]</br>[[ポール・カガメ]]</br>{{仮リンク|ベティ・オイェラ・ビゴンベ|en|Betty Oyella Bigombe}}
|commander2=[[アリス・アウマ]]</br>{{仮リンク|オドン・ラテク|en|Odong Latek}}</br>[[ジョゼフ・コニー]]
|strength1=
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1987年1月ジョゼフ・コニーは[[アリス・アウマ]]の{{仮リンク|聖霊運動 (ウガンダ)|en|Holy Spirit Movement|label=聖霊運動}} (HSM)に連なる霊媒として現れた。コニーは元{{仮リンク|ウガンダ人民民主軍|en|Uganda People's Democratic Army}} (UPDA) 司令官{{仮リンク|オドン・ラテク|en|Odong Latek}}から村などの一般市民を標的にしたゲリラ作戦の指示を受け、元UPDA師団を掌握した。1991年まで LRA は調達のために人々を襲撃し、短期間誘拐された村人によって略奪が実行された。いくらかの NRA部隊もまた残忍な行動で知られていた事から、LRA は少なくともアチョリ人の何割かから受動的な支持を得た<ref name="O’Kadameri">O’Kadameri, Billie. [http://www.c-r.org/accord/uganda/accord11/lra.shtml "LRA / Government negotiations 1993-94"] in Okello Lucima, ed., [http://www.c-r.org/accord/uganda/accord11/index.shtml ''Accord magazine: Protracted conflict, elusive peace: Initiatives to end the violence in northern Uganda''], 2002.</ref>。
 
[[1991年]]3月に「北部作戦」が開始された。それは高圧的な戦術によって住民のLRAへの支持を根元から切り崩し、LRAを壊滅させることを図るものだった<ref name="Operation North">Gersony, Robert. [http://www.usaid.gov/regions/afr/conflictweb/reports/gersony/gersony_uganda.pdf The Anguish of Northern Uganda: Results of a Field-based Assessment of the Civil Conflicts in Northern Uganda] (PDF), US Embassy Kampala, March 1997, and [[アムネスティ・インターナショナル|Amnesty International]], [http://www.amnestyusa.org/countries/uganda/document.do?id=25BBAD1C8FE337DF802569A600601142 Human rights violations by the National Resistance Army], December 1991.</ref>。北部作戦の一環として和平担当相にアチョリの{{仮リンク|ベティ・オイェラ・ビゴンベ|en|Betty Oyella Bigombe}}が任命され、弓矢で武装した地域防衛のための「矢集団」をつくった。LRAは最新の兵器で武装しているので、弓矢で武装した「[[矢集団]]」は圧倒された。それでもコニーは矢集団の創設に怒り、彼が住民からもはや支持されていないと感じ始めた。そしてLRAは政府支持者であると看做した多数のアチョリを殺害した。政府の試みは失敗したが、結果的にアチョリの大半はLRAの反乱に反対するようになった。しかし、これは政府占領軍との根深い対立によって和らげられた。
 
北部作戦の失敗の後、ビゴンベ大臣はLRAと政府の代表の間で初の対面の交渉を始めた。LRAは戦闘員の恩赦を求め、彼らは降伏しないが「帰郷する」意思があると述べた。しかし、政府の姿勢はLRAの交渉者の信憑性に関する意見の相違と政治的な接近戦によって妨げられた。特に軍は、コニーがビゴンベと交渉しながらスーダン政府から支援を受けるべく交渉していたことを知り、コニーが時間稼ぎをしているだけだと感じた。[[1994年]]1月10日の第二次交渉でコニーは部隊を再編制するため6ヶ月を要求した。2月までに交渉の様子は益々トゲトゲしいものとなり、2月2日に LRA は NRA が自分たちを嵌めようとしていると宣言して交渉から離脱した。4日後にムセヴェニ大統領は7日後を最終期限として LRA掃討を再開すると発表した<ref name="O’Kadameri"/>。この最後通告でビゴンベの交渉は中断された。