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この間、[[1963年]]に運営会社の「株式会社川崎スタジアム」が「株式会社川崎球場」に商号を改称した。[[1971年]]12月には川崎球場で初めてアメリカンフットボールの試合([[アサヒビールシルバースター|シルバースター]]対在日米軍オールスター戦)が行われた。開場以来[[野球場#バックネット|バックネット]]は支柱で支える構造だったが、観客の視界を改善するために[[1975年]]、ワイヤーで吊り下げる懸垂式のものに改修した。
 
[[1977年]][[4月29日]]に開催された対[[阪神タイガース]]3回戦で、阪神の[[佐野仙好]]が外野フェンスのコンクリート部に激突し[[頭蓋骨骨折]]の重傷を負った。当時コミッショナーだった[[金子鋭]]はこの事態を重く見て[[5月12日]]の実行委員会で全本拠地球場のフェンスにラバーの設置を義務付けることを提案し、全球団の了承を得た<ref>なお、佐野の負傷の間に一走がタッチアップして得点したことについて阪神側から[[提訴試合|提訴]]されたが、この訴えは同日開かれたセ・リーグ考査委員会で却下されている。その後、同年[[8月1日]]の[[日本野球規則委員会]]で野球規則の細則に「選手の生命にかかわる負傷が生じた場合は、審判員はタイムを宣告できる」とする条文が追加された。</ref>。これがその後、全国の主要野球場にラバーフェンスが普及するきっかけとなった<ref>その後1988年以降は地方を含め、フェンスに緩衝材が設置されていない野球場では一切プロ野球の試合を開催しないと取り決められている。</ref>。また、両軍ベンチ前面にはベンチ全体を覆うような防球用のフェンスが設置されたが、「プレイが見づらい」と選手に不評だったことから後に外されている。
 
川崎球場はこの当時、既に築四半世紀を超えて徐々に老朽化が著しくなりつつあった。大洋は施設や立地、集客力などの問題もあってかねてから川崎球場に限界を感じ、隣接する[[横浜市]]に本拠地を移転する構想を持っていた。大洋は手始めに[[1972年]][[11月22日]]、横浜市に対し「横浜平和球場が改築した折には、本拠地を川崎から移転したい」と申し入れ、当時横浜市長だった[[飛鳥田一雄]]の同意のもと覚書を取り交わした。その後[[中区 (横浜市)|中区]]の[[横浜公園]]内にあった[[横浜公園平和野球場]]の改築計画が具体化し、1977年4月から[[横浜スタジアム]]の建設工事が始まった。
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=== ロッテ本拠地時代 ===
1978年から[[1991年]]にかけての14シーズンは、ロッテが本拠地とした。
 
だがロッテは移転早々、川崎で阪急ブレーブスに前期、後期とも目の前で優勝を決められるなど阪急に大幅な勝ち越しを許した上、前年までリーグ2位だった観客動員数も6年ぶりに50万人を割り込んで5位に陥落するなど苦難のスタートを強いられた。
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老朽化し、かつ狭隘な球場に、人気の凋落した球団では川崎市民をはじめ首都圏の野球ファンの関心を引き寄せる力はあまりにも弱く、川崎駅前や銭湯など市内の各店頭での無料入場券配布などの努力も実らず同年以降も観客動員は低迷を続けた。当時の球団の発表値でも、地方開催を含むロッテ主催試合の観客動員数は年間平均60~80万人台で推移し、実際には5000人以下の観衆しか集まらないことが多かった。
 
テレビの[[プロ野球珍プレー・好プレー大賞|珍プレー好プレー]]番組などでは、試合をよそにスタンドで[[素麺#流し素麺|流しそうめん]]や[[麻雀]]などをし、勝手にたわむれている観客の姿がしばしば取り上げられた<ref>現在では[[2005年]]に定められた「試合観戦契約約款」同約款第8条により、現在ではこれらの行為は全て禁止され、場合によっては退場処分となる。</ref>。また、隣接する[[川崎競輪場]]の[[競輪]]を三塁側スタンド最上段から見ていた客もいたという。そんな中でも川崎球場はパ・リーグの、そして日本プロ野球の歴史に残る数多くの名場面の舞台となっている。
 
[[1979年]]、ロッテの[[レロン・リー]]が前年よく右翼上段の「王ネット」を超えて場外へ打球を飛ばしていたことからネットをさらに嵩上げし「リー・ネット」と呼ばれた。同年には初の[[プロレス]]興行として[[全日本女子プロレス]]の「日米対抗リーグ戦」が開かれた。
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[[1985年]]、ロッテの[[落合博満]]は全130試合に出場し、打率.367、本塁打52、打点146を記録し[[三冠 (野球)|三冠王]]を達成。翌[[1986年]]も打率.360、本塁打50、打点116を記録して2年連続の三冠王に輝いた。しかし、同年オフに年俸の高騰がネックとなるなどし、1対4のトレードで中日ドラゴンズに移籍した。
 
この間も川崎球場の老朽化はさらに著しく進行し続けた。中には開場以来一度も交換されていない機器まであるほどで、かつて放送席にあったボールカウント表示用のスイッチは川崎球場開場年の1952年製造のものだった。スポーツライターの[[鉄矢多美子]]は1977年から[[1987年]]までロッテ球団に入社し、退社する1987年まで広報担当を勤めていた傍らウグイス嬢を担当していたが、球場関係者から「壊れたら替える部品がいので、丁寧に扱ってください」と注意されていたという。
 
また、ロッカールームは湿気が多い上、スタンドの座席は狭隘で座りにくく、トイレは男女共用で、鍵が壊れていることは当たり前だった。当時主力だった[[有藤通世]]は「ロッカールームが湿気でジメジメしていて、バットやグラブ、スパイクを置いたまま1週間遠征に出るとカビが生えた。バットは一晩置いておくだけで20g重くなった」と証言している。またスタンドが低かったため、ファウルボールが一塁側場外に出ると「ドーン」或いは「ガシャーン」という音と共に、選手用駐車場に停めてあるロッテ選手の愛車を直撃することもしばしばあった。
当時の主力選手であった[[有藤道世]]は「ロッカールームが湿気でジメジメしていて、バットやグラブ、スパイクを置いたまま1週間遠征に出るとカビが生えた。バットは一晩置いておくだけで20g重くなった」と証言している。またスタンドが低かったため、ファウルボールが一塁側場外に出ると「ドーン」或いは「ガシャーン」という音と共に、選手用駐車場に停めてあるロッテ選手の愛車を直撃することもしばしばあった。
 
川崎球場は映画やテレビドラマの撮影でもしばしば使われた。[[刑務所]]のトイレのシーンの撮影がスタンド下のトイレで行われたことがある。また、ある刑事ドラマの撮影にも川崎が使われた。犯人が追っ手を逃れ、古ぼけた野球場のスコアボード棟に逃げ込むシーンの撮影だったが、ドラマの監督は撮影場所を選んだ理由について「都内近辺でこんなオンボロのスコアボードがあるのは川崎しかない」と話していたという。また、1982年に製作された映画「化石の荒野」([[角川映画]])では球場のスタンドやフィールドがロケ地として登場している。
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著しく老朽化した川崎球場では誘客が望めないとしてロッテは1980年代以降、[[千葉県]][[千葉市]]の[[千葉県野球場]]や[[栃木県]][[宇都宮市]]の[[宇都宮清原球場]]など関東の他都市への本拠地移転を検討したことが何度かある。しかし施設面や交通の便、さらには行政側の影響も絡むなどしていずれも頓挫した。<ref>他にも1984年に[[稲尾和久]]が監督に就任した際、本拠地を数年以内に[[福岡県]][[福岡市]]へ移転させる計画もあった。</ref>
 
一方、川崎市は引き止め策として川崎球場の改修や[[幸区]]鹿島田地区の[[新川崎駅]]西側にある[[日本国有鉄道]][[新鶴見信号場|新鶴見操車場]]跡地に[[ドーム球場]]を建設する構想を発表した。しかし、市の財政難や観客動員数低迷による採算性への不安、さらに[[リクルート事件]]による市政の混乱などにより計画はなかなか進展しなかった。また、川崎球場の改修についても具体的な対策が執られぬままで、ほとんど改善されぬまま。ロッテは[[1987年]]から女性向けのPR用[[フリーペーパー]]「URE・P(ウレピー)」を無料で配布し、横浜スタジアムが「ハマスタ」と呼ばれる向こうを張って、川崎球場を「SAKIスタ」と呼んでイメージアップを図ったものの、実際の設備に大きな変化はなかった。
 
[[1988年]]、ロッテは前年限りで退団したレロン・リーに代わる外国人選手として、[[メジャーリーグベースボール|MLB]]時代に闘志溢れるプレーで"Mad Dog"(狂犬)の異名を取り、通算4度[[首位打者 (日本プロ野球)|首位打者]]に輝いた[[ビル・マドロック]]を三顧の礼で迎え入れた。球団はマドロックを手厚く迎えるべく、川崎球場の一塁側ダッグアウト裏に専用のロッカールームを用意するなど小規模ながら施設の一部改修を行ったほどだった。また、マドロックは来日後初めて川崎を訪れた際「本当にこんな狭くて汚い球場で試合をするのか」と嘆息し、さらに「この野球場なら(本塁打)50本は打てると思う」と豪語した。だが、マドロックは当時既に37歳を迎えて年齢的にも肉体的にもピークを過ぎており、打率はシーズン中盤まで2割5分を前後し、期待された本塁打もほとんど出ずじまいだった。かつての首位打者の面影の見えないまま不振が続き、4番を[[高沢秀昭]]に譲り5番に降格。リーの後釜を期待していたファンを大きく裏切る不成績に、川崎球場の外壁には「'''マドロック立入禁止'''」なる落書きまで書かれた。
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球場施設の改善に関しては一貫して消極姿勢を取り続けてきた川崎市だが、それを転換せざるを得ない事態が訪れる。同年[[10月19日]]、[[大阪近鉄バファローズ|近鉄バファローズ]]がリーグ優勝のマジックを「2」として迎えた大一番のロッテとの[[ダブルヘッダー]]、いわゆる「[[10.19]]」である。熱戦にスタンドは溢れ返り、右翼場外のマンションには通路や階段、屋上にまで鈴なりの人垣ができた他、売店の飲食物や飲食店の食材も試合半ばで底を突いた。近鉄は第1試合に勝ったものの第2試合は引き分けに終わり、[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]がリーグ4連覇を果たした。この10.19には普段川崎を訪れない観客も多く訪れ、テレビやラジオでも生中継で全国放送された。
 
なおその後、市や球団には施設やサービス面について観客からの苦情が数多く寄せられたため、これまで改修を渋り続けてきた市も重い腰を上げざるを得ず、翌[[1989年]]秋から川崎球場の改修工事に着手する。
 
その1989年、通算198勝で開幕を迎えたロッテの[[村田兆治]]投手はまず1勝を挙げ、いよいよ200勝に王手をかけると、当時監督だった[[有藤通世]]は「本拠地で200勝を達成させてやりたい」と、川崎での主催試合にローテーションを合わせる方針を決めた。だが、[[4月16日]]の近鉄戦では延長11回の粘投も最後は[[新井宏昌]]の適時打で力尽きると、[[4月30日]]の[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハム]]6回戦は序盤で打ち込まれてKO。両日とも記録達成を見届けようとスタンドは観客で埋め尽くされ、テレビ中継も行われたものの結局川崎では達成できなかった。村田は[[5月13日]]、[[山形県野球場]](現:荘内銀行・日新製薬スタジアムやまがた)<ref>現在は楽天が[[東北楽天ゴールデンイーグルス (ファーム)|二軍]]の本拠地として、[[利府町中央公園野球場|楽天イーグルス利府球場]]との併用で使用している。</ref>でのビジターの日本ハム7回戦で200勝を達成した。
 
また、パ・リーグはこの年も上位チームが僅差で競り合ういわゆる「熱パ」となり、シーズン終盤は近鉄、西武、[[オリックス・バファローズ|オリックス]]の三つ巴の争いとなった。川崎では[[10月12日]]と[[10月13日|13日]]にロッテ対オリックス3連戦が行われ、オリックスは12日のダブルヘッダーに連勝。一方、西武球場(現:[[西武ドーム]])の西武対近鉄のダブルヘッダーでは近鉄が西武を猛打で圧倒して優勝戦線から引きずり下ろし、近鉄がマジックを「2」とした。翌13日、同じく川崎でのロッテ戦に臨んだオリックスは先発にエース[[佐藤義則]]を立てたが5回、[[愛甲猛]]に決勝3ランを喫すなどし、5-3で敗戦。マジックを「1」とした近鉄は翌[[10月14日]]、[[藤井寺球場]]の[[福岡ソフトバンクホークス|ダイエー]]戦で歓喜のリーグ優勝を果たした(詳細は[[10.19#翌年の10.12へ]]を参照)。
 
[[1991年]]春、川崎市が14億円を掛けた改修工事が完了。この2年の間にスタンド壁面の再塗装、防球ネットの嵩上げ、一部座席の取替え、パネル式だったスコアボードの電光化、フィールドの[[人工芝]]敷設など段階的に施設の改装を行った。また、近鉄の[[ラルフ・ブライアント]]が右翼上段の「リー・ネット」を超えて場外に打球を飛ばしていたことから、この改修工事を期にネットがさらに嵩上げされ「ブライアント・ネット」と呼ばれた。ロッテは同年春、「テレビじゃ見れない川崎劇場」を謳い文句に誘客キャンペーンを展開、自虐的なテレビコマーシャルも話題を呼んだ。
 
しかし、この時の改修も一部分だけであり、老朽化および狭隘化した施設そのものが改善されたわけではなく、抜本的な設備の改善を望める状況ではなかった。またこの頃、千葉市が[[千葉マリンスタジアム]](現:QVCマリンフィールド)を竣工させ、施設不備にさいなまれていたロッテに対して本拠地誘致を積極的に進めていた。結局、ロッテはこの年限りで本拠地の千葉移転を発表。当初は移転後も当面の間、川崎でも年間10試合程度の公式戦を開催する方向で検討していたが、川崎市が川崎球場の改修を盾に、移転に関する収入補償を求めてきたことで態度を硬化。だが、ロッテはこれまで長年に亘り川崎市に川崎球場の改修や新施設の整備を求めてきたのをことごとく反故にされ続けてきた経緯からこの要求を拒否。川崎での試合開催数も大幅に削減することを決めた。こうして川崎球場はプロ野球の本拠地としては幕を引くことになった。なお、ロッテはこの年が球団史上初の観客動員100万人達成となった。
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=== ロッテ移転後 ===
その後、[[1992年]][[7月3日]]と[[7月4日|4日]]に千葉ロッテマリーンズ対近鉄バファローズ2連戦が開催された。翌[[1993年]][[8月6日]]には15年ぶりのセ・リーグ公式戦として横浜ベイスターズ対阪神タイガース戦が組まれたものの当日は雨天中止となり予備日も設定されなかったため、前述の1992年のロッテ対近鉄戦が川崎で最後の一軍公式戦となった。公式戦の開催試合数はセ・リーグが1394試合、パ・リーグが1059試合の計2453試合。この他日本シリーズ2試合、パ・リーグの[[プレーオフ制度 (日本プロ野球)|プレーオフ]]4試合、[[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]7試合などが行われた。[[オープン戦]]は[[1994年]][[3月19日]]に横浜対日本ハムファイターズ戦が開催され、横浜が前身の大洋以来16年ぶりに川崎で主催した試合となった。また、二軍では1992年[[10月3日]]に読売ジャイアンツ巨人対中日ドラゴンズの[[ファーム日本選手権|ジュニア日本選手権]]が行われた他、[[1996年]]に巨人主催の[[イースタン・リーグ]](二軍)公式戦が1試合開催された。翌[[1997年]]にも巨人主催の二軍公式戦が1試合開催されたが、これが川崎で最後のプロ野球公式戦となった。ちなみに1997年[[8月20日]]の巨人対ヤクルトスワローズ戦は5-1で巨人が勝ったが、この試合の勝ち投手は前述の10.19で苦い思い出を持つ[[阿波野秀幸]]だった。
 
プロ野球の開催はなくなったが、[[日本の高校野球|高校野球]]や[[首都大学野球連盟|首都大学野球]]、社会人野球など[[日本のアマチュア野球|アマチュア野球]]の公式戦はその後も継続して行われた。またフィールドが人工芝になってからはアメリカンフットボール「[[Xリーグ]]」の公式戦が本格的に行われるようになった。他にもプロレスの会場として使用され、特にプロレス団体の[[フロンティア・マーシャルアーツ・レスリング|FMW]]は川崎球場を聖地と呼び、通算7回(スタンド撤去前は6回)に亘って興行([[FMW川崎球場大会]])を行っている。本球場の観客動員記録を持っているのもプロ野球ではなくFMWであるが、これはプロレスではスタンドだけでなく、フィールド部分もアリーナ席として使用するためである。
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この間、富士見公園内にある各施設の老朽化が問題視され、市は再整備計画について検討を開始。その結果[[1995年]]11月、川崎球場は[[1998年]]開催の秋季[[国民体育大会]]([[第53回国民体育大会|かながわ・ゆめ国体]])終了後に撤去し、その後市内の他の場所に代替施設を建設する方針が決まった。これに伴い、かつて頓挫した新鶴見のドーム球場構想が再び浮上したが、市の財政難もあって計画は事実上頓挫。結局川崎球場は取り壊されることなく、その後も野球をはじめ各種イベントが行われた他、草野球等の一般利用などに供用されてきた。
 
だが、[[1999年]]12月に市が実施した耐震検査の結果、スタンド部分が[[震度]]6程度の[[地震]]で倒壊する危険性があることが指摘され、翌[[2000年]]1月、市は同年[[3月31日]]限りで川崎球場を一旦閉鎖し、スタンドの解体、撤去を行うと発表した。建築当時の予算が総額6000万円に抑制され、鉄骨には米軍が使用していた鋼材や日本鋼管が持ち込んだ廃材が使用されるなど躯体が脆弱な上、高度成長期の大気汚染によって老朽化がより著しく進行した可能性があるとも言われた。またこの間、市側が抜本的な改修や補強をほとんどと言っていいほど行ってこなかったのが最終的にあだとなった。撤去決定の知らせを受け、ロッテファンを中心とする野球ファン有志が[[2月26日]]、川崎球場を借り切ってお別れイベントを実施。このイベントではオリオンズOBによる紅白戦も行われ、スタンドではかつての低迷期のようにキャッチボールをするファンやベンチに横になって仮眠を取るファンも見られたが、流しそうめんまで敢行したファンはいなかった。アマチュア野球の最後の公式戦は同年3月に行われた社会人野球の「[[JABA東京スポニチ大会]]」となった。
 
そして[[3月26日]]には「川崎球場ファイナルシーン」と銘打って、かつて川崎球場を本拠とした横浜とロッテによるオープン戦が開催され(当初の横浜スタジアムでの開催予定を変更、「[[プロ野球サントリーカップ]]」として開催)、これが川崎球場で最後のプロ野球の試合となった。当日は別れを惜しむファンが詰めかけ、場外には長蛇の列ができ、スタンドでは21,000人の観客が最後の試合を見届けた。試合は打撃戦の末、ロッテが22-6で勝利したが、本塁打がロッテ側のみに10本(プロ野球公式戦での1チーム最多本塁打記録は9本)、しかも本来は長距離打者ではない[[小坂誠]]が1[[イニング]]2本塁打の快記録を作ったことは、川崎球場の狭いフィールドがボールなどの性能が向上した2000年当時のプロ野球の開催に耐えられないことを示していた。なお、当時の横浜には近鉄時代に10.19で2試合連続リリーフ登板した阿波野秀幸や川崎時代のロッテのエースだった[[小宮山悟]]が在籍しており、登板はなかったものの多くの観衆から声援を受けた。試合終了後には閉場セレモニーが行われ、市民がフィールド上で「ありがとう」の人文字を造った。この日、満塁を含む2本塁打を打ったロッテの[[堀幸一]]は「僕がプロ入り初めての一軍の試合で本塁打を打ったのはここ。最後の試合で打てて、いい思い出になる」、10.19の第2試合で同点本塁打を放ったロッテ打撃コーチの高沢秀昭は「自分のいい時も悪い時も知っている球場。10.19でのホームランが今でも話題に上るのは嬉しい」、その本塁打を打たれた阿波野は横浜市出身とあって、川崎では高校時代からプレーしており「高校野球でも負けたし、今でも高沢さんが申し訳なさそうにダイヤモンドを回る姿が忘れられない。この球場でいい思い出はつくれなかったけど、一球の重みを教えてくれた、僕の野球人生になくてはならない球場」と、それぞれに思い出を語っていた。
 
こうして、それまで不人気の評判がつきまとった川崎球場はその最後を華々しく飾り、3月31日にその役目を終えた。
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[[2007年]]には第3回[[アメリカンフットボール・ワールドカップ]]が川崎市で開催され、川崎球場は[[中原区]]の[[等々力陸上競技場]]とともに開催会場の一つとなり、全9試合のうち開幕戦と決勝戦を除く7試合が行われた。これに合わせて老朽化した室内練習場が撤去され、新たに更衣室棟(クラブハウス)が建設された。また、この際アメフト観戦用の仮設スタンドが元のレフト・ライトのグラウンド上に新設された(野球用の1塁側の箇所がメインスタンド、同3塁側がバックスタンドで、従来の外野部分が縮小された。ゴール裏は従来に同じ)他、マウンドや各ベース部分などの土の部分についても全て人工芝化するなど事実上アメフト専用スタジアム化された。[[2009年]]にはよりアメフト用スタジアムとしての機能を増強すべく仮設スタンドの改修(主に旧ホームベース側への増設)が行われている。
 
事実上、アメフト専用のスタジアムとなった現在も[[軟式野球|軟式]]球場として貸し出しているが、施設利用のご案内には「全面人工芝で、ピッチャーマウンドは御座いません」「両翼約70m、センター約90m」と記載されている。また、川崎球場が所在する富士見公園内には野球場『富士見球場が隣接している。
 
川崎球場は今後、本格的な球技専用スタジアムとしてのリニューアルを図るためスタンドおよびグラウンドの増改築を行うことになり、まず[[2012年]][[4月]]から約1年半をかけてメインスタンド側の仮設席の撤去→新スタンド(コンクリート製)設置工事を実施、[[2013年]][[10月]]ごろにメインスタンド部が完成後、バックスタンドの仮設席撤去→新スタンド設置工事を行い、[[2014年]]10月ごろの竣工を目指すとしている。収容人員は4000人程度に拡大され、野球場時代の「ダイヤモンド型」から、長方形型の「[[球技場]]」形式のものへ一新される。<ref>[http://ameblo.jp/clubox/entry-11229238036.html 川崎球場が生まれ変わります](クラブオックス川崎AFC公式ブログ 2012年4月21日 同9月26日閲覧)・[http://stat.ameba.jp/user_images/20120415/10/clubox/5f/a9/j/o0400030511916762724.jpg 完成予定図の写真]</ref>ただし工事期間中も通常通り試合や練習には使用可能。
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* 出場選手表示箇所(縦書き横スクロール)の上部には、チーム名を表示する箇所が設けられていた(1文字ずつ「大」「洋」などと掲出)。また、イニングスコアは9回まで表示可能。仮に延長戦に入った場合、10回以降は9イニング分の得点パネルを外し、再び1回から表示し直していた。その後10回まで表示可能に。11回以降は改めて1回のところから表示し、10回までの合計得点を10回の部分に表示した。ただし合計得点を表示する箇所は設けられておらず、高校野球など一部のアマチュア野球の試合では、10回の部分に合計得点を表示することがあった。またこの場合、8回が終了すると誤読を避けるため、パネルを外す措置が行われていた。
* [[1970年代]]中盤頃、第2試合を表示する箇所を改修。同箇所には現打者の打率と本塁打数を表示する箇所(電光式。白色電球を使用)と、前試合の結果もしくは他球場の速報を表示する箇所が設けられた。またパ・リーグの指名打者制導入に伴って、選手名表示部に投手を表示する箇所が追加された。さらにチーム名表示箇所も改修され、チームの安打数・失策数を電光表示する箇所が設けられた。
* それまでプロ野球の試合の際、選手名と守備位置の表示板は黒地のパネルに白文字で書かれたものを使用していたが、[[1987年]]から、これらは青地に白文字で書かれたものに入れ替えられた。だがこの際、阪急ブレーブスの選手の分を作成し忘れたため、同年最初のロッテ対阪急戦では、阪急選手の表示部分がすべて空白となるという珍事が発生した。
*スコアボード下の[[バックスクリーン]]には回転広告が設置されていた時期(ホームラン時やイニングインターバルの演出に使用)があった。なお、大洋本拠地時代は[[マルハ|大洋漁業]](現:[[マルハニチロ水産]])の広告になっていた。(それ以降は不明)
*[[1991年]]から2000年のスタンド撤去まで、スコアボードは電光式(高輝度放電管)だった。
** スコア部の表示方法も改められ、他球場同様、イニングスコアの右側に合計得点、安打数、失策数を表示する形式となった。
** 現在攻撃中の選手を示す表示(赤色信号灯やネオン管、LEDなどを使用)が設けられていなかったため、[[守備番号]]の表示部を全面点灯にすることで識別した。そのため当該選手の攻撃中だけは白い■の表示となり、守備番号が見えなくなっていた。