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==来歴・人物==
岐阜短期大学付属高等学校(現在の[[岐阜第一高等学校]])のエースとして[[1970年]]春と夏の甲子園に出場。春はベスト8、夏はベスト4まで勝ち上がった。また、高校時代に[[ノーヒットノーラン]]を3回達成(うち[[完全試合]]1回)。当時、同学年で活躍した和歌山・[[箕島高校]]の[[島本講平]]投手、広島・[[広陵高等学校 (広島県)|広陵高校]]の[[佐伯和司]]投手と合わせて「三羽ガラス」と呼ばれた。超高校級の本格派・サウスポーとも呼ばれた。
ストレートは同期入団の佐伯([[広島東洋カープ|カープ]]に入団)に匹敵するほどの威力があった。り、角度のあるカーブも投げていた。荒れ球が持ち味でもあり、制球難が致命傷だを危惧する声もあったが、
[[1970年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|同年秋のドラフト]]で読売ジャイアンツに1位で指名され、翌[[1971年]]に入団。しかし1971年と[[1972年]]は一軍での登板はなかった。
 
=== 湯口事件 ===
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湯口は1972年11月23日に行われたファン感謝デーの紅白戦でリリーフ登板するが、前日に参加した無礼講の飲み会の余韻のせいか(自分の登板予定が無かったため、大量の酒を痛飲していた)、打者一巡、2ホームランと打ち込まれ、[[川上哲治]]監督、[[中尾碩志]]二軍監督から厳しい叱責を受けたと言われている。更に、この日は合宿所に帰らず、翌日戻ったときにその中尾から[[拳骨]]を食らった。11月27日に行われた納会では話しかけられても反応しない、視点が定まらないなど、体の変調を見せる。翌日、チーム担当の医師から[[うつ病]]と診断され、その後2度の入退院を繰り返した。しばしば「川上監督に申し訳ないことをした」と紅白戦のことを思い出しては悔やんでいたという。
 
翌1973年初めに病状が改善し、同年2月に宮崎県都城で行われた2軍キャンプに参加(これはマスコミを警戒した球団側の意向もあったといわれている)。しかし、キャンプ初日にチームメイトが話しかけても反応しない、夜中に大声を上げるなど、再び精神的な異変が現れたため、翌日には監督から参加禁止を言い渡され、東京への帰還を命じられた。到着直後の羽田空港内で症状が悪化したため都内の精神科病院に再入院し、治療を受けていたが同年3月22日に急逝した。死因は[[心臓麻痺]]と発表された。しかし、前日まで精神を病んでいた可能性があったとはいえ体そのものは元気だった湯口が急に死去したのは不自然であり、誰もが「自殺ではないのか?」と怪訝な目で見ていたという。
 
==詳細情報==