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=== プロ入り後 ===
;'''{{by|2004年}}'''
{{by|2004年}}は:大物ルーキーとして[[キャンプ (日本プロ野球)|キャンプ]]・[[オープン戦]]から注目され、[[藤本敦士]]とのポジション争いも話題となった。7番遊撃手で開幕[[スターティングメンバー|スタメン]]に選ばれプロ初安打を放ったが、その後は結果を出せず、開幕5試合でスタメンを外され、6試合目からは藤本が正遊撃手となり、主に[[代打]]や[[三塁手]]として出場機会が限られたシーズン前半は77打数13安打、打率.169とプロの壁に苦しんだ。藤本が[[アテネオリンピック野球日本代表]]としてチームを離れた8月と藤本が不振に陥った9月中旬からシーズン終了までは再び遊撃手として先発出場する機会を得て、シーズン後半は158打数46安打、打率.291と持ち直し、プロ1年目の最終成績は打率.251、3本塁打、17打点であった。
 
;'''{{by|2005年}}'''
{{by|2005年}}は:藤本が[[二塁手]]に[[コンバート (野球)|コンバート]]され、開幕から遊撃手として全試合出場。2番を打っていた藤本と[[関本賢太郎|関本健太郎]]の打撃不振により[[セ・パ交流戦]]以降は2番打者に定着。打率.278、9本塁打、52打点の成績を残し、[[サヨナラゲーム|サヨナラ]]本塁打を2本放つなどチームの優勝に貢献。自身初の[[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスター]]出場、[[2005年の日本シリーズ|日本シリーズ]]出場も果たした。4月27日の対[[中日ドラゴンズ]]戦ではチームメイトの[[橋本健太郎]]がプロ初勝利を挙げたが、ウイニングボールをスタンドに投げ込んでしまった。オフには高校の1年先輩で野球部マネージャーだった女性と結婚。夏には[[赤星憲広]]ら3選手と共に六本木の飲食店にいたところ、たまたま居合わせた[[市川海老蔵 (11代目)|市川海老蔵]]から腕相撲を挑まれ、最初に絡まれた赤星が勝負に出ようとしたが、鳥谷が赤星の代わりに自ら勝負を申し受け、一瞬にして海老蔵に勝ったという<ref>[http://www.daily.co.jp/gossip/troubled/2010/11/26/0003639457.shtml 海老蔵、05年には腕相撲挑み阪神・鳥谷に秒殺KO] デイリースポーツ 2010年(平成23年)11月30日</ref>。
 
;'''{{by|2006年}}'''
{{by|2006年}}:シーズン前半は主に7番遊撃手、シーズン後半は6番遊撃手として全試合フルイニング出場。6月1日の対[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]戦で[[愛敬尚史]]から逆転2ラン本塁打、2日の対[[福岡ソフトバンクホークス]]戦では[[斉藤和巳]]からソロ本塁打とタイムリー[[二塁打]]、3日の対ソフトバンク戦では[[藤岡好明]]からサヨナラ安打を放ち、3日連続で[[お立ち台]]に立った。ファン投票選出で2年連続のオールスター出場。9月前半まで打率3割台を維持するも、シーズン最終盤に成績を落とし、最終成績は打率.289、15本塁打、58打点だった。9月に長男が誕生。
 
;'''{{by|2007年}}'''
{{by|2007年}}は:赤星憲広に代わり主に1番打者として全試合出場したが好不調の差が激しく、打率.273、10本塁打、43打点と打撃成績が前年よりも落ち込んだ。7月24日の対中日戦で遊撃手として340試合連続フル[[イニング]]出場のプロ野球記録を樹立し、9月28日の398試合まで記録を伸ばしたが、25日の試合で受けた[[死球]]の影響で翌29日に途中交代した。同年オフに[[レーシック]]手術を受け視力が回復した<ref>[http://www.sponichi.co.jp/osaka/base/200804/03/base209314.html 鳥谷1号逆転V弾!止まらぬ勢い開幕5戦連続H] [[スポーツニッポン]]、2010年(平成23年)6月30日閲覧。</ref>。
 
;'''{{by|2008年}}'''
{{by|2008年}}は:開幕から6番遊撃手として出場。シーズン前半は3割を超える打率で、勝負強さも見せた。夏場に[[新井貴浩]]が離脱した際には3番や5番に入ったが調子を落とした。不調だった[[今岡誠]]が9月に復帰した後は再び6番に戻り、打率.281、13本塁打、自己最多の80打点を記録。10月19日の[[2008年のセントラル・リーグクライマックスシリーズ|クライマックスシリーズ]]対中日戦では1試合2本塁打を放った。守備では[[守備率#アウト寄与率|簡易RF]]5.13を記録し、{{by|1992年}}の[[野村謙二郎]]以来リーグ16年ぶりの5点台を達成するなど、圧倒的な守備指標を叩き出したが、[[ゴールデングラブ賞]]受賞はならず波紋を呼んだ<ref>[http://number.bunshun.jp/npb/column/view/4364/ ゴールデングラブ賞に異議アリ。鳥谷敬の守備力に正当な評価を!] ベースボール・ダンディ - プロ野球コラム - [[Sports Graphic Number|Number Web]]</ref>。同年は自身2度目の全試合フルイニング出場も達成して[[ベストナイン (日本プロ野球)|ベストナイン]]を初受賞。9月13日に次男が誕生。
 
;'''{{by|2009年}}'''
{{by|2009年}}は:開幕から3番遊撃手として出場。4月終了時点で90打数30安打14打点と好調だったが、5月に不調に陥り、[[打順]]も7番に降格し、チャンスで代打を送られるなど苦しんだ。シーズン後半は完全復調して打順も3番に戻り、打率.288、自身初の20本塁打、75打点を記録。安打、[[得点]]、打率、[[長打率]]、[[OPS (野球)|OPS]]はチーム1位。守備でも遊撃手としてリーグトップの[[守備率]].990を記録した。これは[[平田勝男]]が{{by|1986年}}に記録した.988を上回る球団記録でもあった。11月26日、引退した赤星の後継としてチーム選手会長に就任した。
 
;'''{{by|2010年}}'''
{{by|2010年}}も:開幕から3番遊撃手として出場。5月に[[マット・マートン]]と交錯し[[腰椎]]を骨折した後、成績を落とし、4試合スタメン離脱。6月から7月まで1番打者を務め、3番に戻った8月から一気に調子を上げ、赤星の持っていた球団月間安打記録を更新する43安打を放つなど、月間打率.422、OPS1.151の活躍で月間MVPを初受賞した。10月2日の対[[広島東洋カープ]]戦で、遊撃手としてプロ野球史上初となるシーズン100打点を記録。10月5日の対[[東京ヤクルトスワローズ]]戦でプロ通算1,000本安打を達成。シーズンを通して打率.301、19本塁打、104打点と自己最高の成績を残し、リーグトップの得点圏打率.360、満塁打率.500を記録するなど勝負強さも見せた。また、7月20日の対広島戦で球団史上初となる「延長戦での逆転サヨナラホームラン」を放っている。2年ぶり2度目のベストナインを受賞。6月4日、選手会長として[[総務省]][[近畿総合通信局]]から「地デジカ応援隊」タイガース隊隊長に任命された。7月2日に長女が誕生。
 
;'''{{by|2011年}}'''
{{by|2011年}}、:開幕から3番遊撃手として出場。5月15日の対中日戦で打球処理の際に右手人さし指の爪を裂傷し途中交代。翌週から始まった[[セ・パ交流戦]]では遊撃守備を[[上本博紀]]に譲り、5月28日に守備復帰するまで[[指名打者]]や代打で出場した。5月22日の対西武戦で通算1,000試合出場を達成。この年に導入された統一球の影響もあり本塁打、打点は前年の半分以下に落ちたものの、2年連続の打率3割越え(打率.300・リーグ4位)を記録し、OPSはリーグ3位、[[RC (野球)#RC27|RC27]]はリーグ2位をマーク。[[RC (野球)#RCWIN|RCWIN]]では自己最高の数値を記録するなど、傑出度では過去最高の成績だった。また[[三塁打]]7、[[四球]]78、[[出塁率]].395はいずれもリーグトップで、自身初のタイトルとなる[[最高出塁率]]を獲得した。上述の怪我で守備ができない時期もあったが、3年連続失策一桁台、自身の持つ球団記録を更新する守備率.991を記録して、念願のゴールデングラブ賞を初受賞、2年連続3度目となるベストナインも受賞した。9月3日に[[フリーエージェント (日本プロ野球)|国内FA権]]を取得したが行使せず残留。
 
;'''{{by|2012年}}'''
{{by|2012年}}、:この年からチームが制定した野手キャプテンに選ばれる(投手キャプテンは[[藤川球児]])。シーズンでは阪神で唯一全試合出場を果たした。成績は打率.262、8本塁打、59打点と昨年より大きく打率を落としたが、自身最高の94四球を記録し高い出塁率は維持した。8月には[[フリーエージェント (日本プロ野球)|海外FA権]]を取得。「メジャーへの思いはあります」とメジャー挑戦志向があることを公言し、「メジャーか残留かは正直、五分五分」とまで話したが<ref>[http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/10/11/kiji/K20121011004304550.html 鳥谷 メジャーか残留かは「正直、五分五分」]スポニチ、2012年(平成25年)10月11日</ref>、前年と同じくFA権を行使せずに残留を表明。「いろんな可能性を残して、自分を奮い立たせてやりたいので」と年俸2億8000万円の単年契約で契約更改した<ref>[http://www.nikkansports.com/baseball/news/p-bb-tp0-20121208-1057225.html 阪神鳥谷9年目初ダウンも気合の一発更改]日刊スポーツ、2012年(平成25年)12月8日</ref>。
 
;'''{{by|2013年}}'''
{{by|2013年}}、:[[2013 ワールド・ベースボール・クラシック]][[2013 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表|日本代表]]の最終登録メンバー(28名)に選出。日本代表の強化試合およびWBCの本選では、本職である遊撃手以外の内野手の層が薄いチーム編成の下で、公式戦での経験がほとんどない[[二塁手]]や[[三塁手]]としても多く起用された。[[東京ドーム]]で開催された2次ラウンド[[2013 ワールド・ベースボール・クラシック・チャイニーズタイペイ代表|チャイニーズタイペイ]]戦で1点ビハインドの9回表1死から四球で出塁すると、2死後に打者・[[井端弘和]]の場面で二盗に成功。直後に井端の[[適時打]]で同点のホームを踏んだ(試合は延長10回の末に4-3で日本代表が勝利)。翌日の[[2013 ワールド・ベースボール・クラシック・オランダ代表|オランダ]]戦には、それまでの本選で無安打だったにもかかわらず、[[出塁率]]の高さや前述の[[盗塁]]を買われて[[リードオフマン]]としてスタメン出場。初回に先頭打者本塁打を右翼[[スタンド]]に叩き込んだ。この一打をきっかけに、チームは17安打・6本塁打の猛打を見せ(WBC1試合最多記録タイ)、16-4でに7回コールド勝ち(大会規定による[[コールドゲーム]])。3大会連続の決勝ラウンド進出を決めた。決勝ラウンド・準決勝の[[2013 ワールド・ベースボール・クラシック・プエルトリコ代表|プエルトリコ]]戦([[サンフランシスコ]]・[[AT&Tパーク]])では、1番・二塁手として8回裏の打席で三塁打を放つと、次打者・井端の適時打で日本代表唯一の得点を挙げたが、チームはこの試合で敗退した(3-1)。
 
:シーズンでは、藤川のメジャー移籍に伴い、チームキャプテンに選ばれ、「3番・遊撃手」として公式戦への出場を継続。7月7日の対広島戦(マツダスタジアム)への出場によって、2004年(平成17年)9月9日の対ヤクルト戦(甲子園)からの連続試合出場記録が、NPB歴代単独3位の1251試合に達した<ref>[http://www.nikkansports.com/baseball/news/f-bb-tp0-20130707-1153774.html 【阪神】鳥谷が連続出場記録で単独3位]日刊スポーツ、2013年(平成26年)7月7日</ref>。また、オールスターゲームには、セントラル・リーグのファン投票・遊撃手部門で選出<ref>[http://www.nikkansports.com/baseball/news/p-bb-tp0-20130625-1147521.html 阪神鳥谷、球宴でも伝説の盗塁を再現]日刊スポーツ、2013年(平成26年)6月25日</ref>。同ゲーム前最後のリーグ戦であった7月17日の対巨人戦(甲子園)<ref>[http://www.daily.co.jp/tigers/2013/09/14/1p_0006336497.shtml 鳥谷4番の仕事!セ4位45戦連続出塁]デイリースポーツ、2013年(平成26年)9月14日</ref>から9月16日の対東京ヤクルト戦(神宮)までは、球団史上最長・リーグ歴代3位タイの47試合連続出塁を記録した<ref>[http://www.nikkansports.com/baseball/news/f-bb-tp0-20130917-1190952.html 【阪神】鳥谷、連続試合出塁47で止まる]日刊スポーツ、2013年(平成26年)9月17日</ref>。8月30日の対広島戦(甲子園)からは、自身初にして、阪神の遊撃手では1980年(昭和56年)の[[真弓明信]]以来33年振りに4番打者へ起用された<ref>[http://www.nikkansports.com/baseball/news/f-bb-tp0-20130830-1181470.html 【阪神】鳥谷、真弓氏以来遊撃4番も不発]日刊スポーツ、2013年(平成26年)8月30日</ref>。10月以降は3番打者に戻ったものの、公式戦ではリーグ最多および球団新記録の104四球を獲得。また、2年連続フルイニング出場を達成したため、前述の連続試合出場記録も1322試合にまで伸ばした<ref>[http://www.nikkansports.com/baseball/news/p-bb-tp0-20131009-1201824.html 虎鳥谷2年連続フル出場&球団新104四球]日刊スポーツ、2013年(平成26年)10月9日</ref>。2011年以来2度目となるゴールデングラブ賞を両リーグ最多投票で受賞<ref>[http://mgg.mitsuipr.com/mgg/result/2013/index.html 2013年第42回ゴールデングラブ賞 結果・投票数]</ref>、通算4度目となるベストナインも受賞し、合同会社DELTA算出の[[UZR]]で遊撃手1位の26.4、1000イニングあたりの[[UZR]]/1000では2位の20.4を記録<ref>セイバーメトリクスマガジン2,2013年11月7日,デルタクリエイティブ発行,P182</ref>、同社算出の選手総合評価指標[[WAR (野球)|WAR]]では両リーグ1位の8.0を記録した<ref>セイバーメトリクスマガジン2,2013年11月7日,デルタクリエイティブ発行,P220</ref>。シーズンオフには、「優勝できなかったということがあるし、チームの方に必要とされたということがあるので」と話し、年俸3億円の単年契約で契約更改した。<ref>[http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20131212-00000047-dal-base 阪神・鳥谷2000万増の3億円で単年契約]デイリースポーツ、2013年(平成25年)12月12日</ref>
 
== 選手としての特徴 ==