「アルケタス (オロンテスの子)」の版間の差分

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== アレクサンドロス死後―ディアドコイ戦争 ==
[[紀元前323年]]のアレクサンドロスの死後、アルケタスはペルディッカスと共にアレクサンドロスの腹違いの姉妹の[[キュナネ]]を殺害した<ref>ディオドロス, XIX. 52</ref><ref>フォティオス, cod. 92</ref>。というのも、彼女は娘の[[エウリュディケ2世]]とアレクサンドロスの腹違いの兄弟の王[[ピリッポス3世]]との結婚を望んでおり、アレクサンドロスと[[ロクサネ]]の遺児の後見人となって権力を握ろうとしたペルディッカスにとって邪魔であったからだ。[[紀元前321年]]、ペルディッカスと彼に不満を持つ諸将との間で戦争が起こり、アルケタスは[[小アジア]]の[[カッパドキア]]・[[{{仮リンク|パフラゴニア]]|en|Paphlagonia}} [[サトラップ|太守]][[カルディアのエウメネス|エウメネス]]の指揮下で反ペルディッカス同盟の一員であった将軍[[クラテロス]]と戦うよう命じられた。しかし、軍内部で圧倒的な人望を持つクラテロスを敵に回すことへの恐怖(敵がクラテロスだと分かった時には味方の兵士画の裏切りさえ予想された)、[[文官]]の出で[[外国人]]でもあったエウメネスの下につくのを嫌がって合流せず<ref>ユスティヌス, XIII. 6</ref><ref>プルタルコス, 「エウメネス」, 5</ref>、結局クラテロスにはエウメネスが単独で当たり、彼は[[ヘレスポントスの戦い]]でクラテロスを敗死させた。しかし、それに前後してペルディッカスが[[エジプト]]にて配下の将軍達に殺害されており、アルケタスらペルディッカス派は頭を失った。
 
その後、他の将軍たちによって[[トリパラディソスの軍会]]にてアルケタスやエウメネスを含むペルディッカス派はマケドニア人の敵と宣言されて彼らの討伐が決定され、その任には[[フリュギア]]太守[[アンティゴノス1世|アンティゴノス]]があたった<ref>ディオドロス, XVIII. 37, 39</ref><ref>ユスティヌス, XIII. 8</ref>。アンティゴノスはエウメネスを破ってカッパドキアの城砦ノラに封じ込めた後、アルケタスへとその矛先を向けた<ref>ディオドロス, XVIII. 41</ref>。一方、アルケタスは義理の兄弟の[[アッタロス (アンドロメネスの子)|アッタロス]]と[[ピシディア]]で合流して[[アサンドロス]]を破ったものの<ref>フォティオス, cod. 92</ref>、[[紀元前319年]]の[[クレトポリスの戦い]]でアンティゴノスに決定的な敗北を喫した<ref>ディオドロス, XVIII. 44, 45</ref>。この戦いでアッタロスをはじめとする主たる将軍たちはアンティゴノスに捕まって旧ペルディッカス派は壊滅したが、アルケタスはなんとか[[テルメッソス]]に逃げのびた。そこで彼は若者たちの支持を得るも、戦争に巻き込まれるのを恐れた長老たちによりアンティゴノスに引き渡されそうになった。その時アルケタスは生きて敵の手に落ちるを良しとせずに[[自殺]]した。アンティゴノスに引き渡されたアルケタスの遺体は3日間にわたりいたぶられ、アンティゴノスが去った後、アルケタスの死を悲しんだテルメッソスの若者は放置されたアルケタスの亡骸を埋葬して墓を建てた<ref>ibid, XVIII. 46, 47</ref>。