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{{日本の古墳|
名称=稲荷山古墳|
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埼玉県第2位の規模の大型[[前方後円墳]]である。造営年代は、古墳時代後期の[[5世紀]]後半と考えられている。埼玉古墳群中では最初に築造された。
稲荷山古墳は[[大仙陵古墳]]と墳形が類似していることが指摘されている。大仙陵古墳を4分の1に縮小すると稲荷山古墳の形に近くなる。また埼玉古墳群の[[二子山古墳 (埼玉県)|二子山古墳]]、[[鉄砲山古墳]]も大きさは異なるものの稲荷山古墳と同じ墳形をしており、やはり大仙陵古墳をモデルとした墳形と見られている。埼玉古墳群以外に大仙陵古墳を縮小した形で造営された古墳としては、[[奈良県]]の[[川合大塚山古墳]]や[[岡山県]]の[[両宮山古墳]]などが挙げられる。
== 規模・形状 ==
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== 鉄剣 ==
[[1968年]]の発掘調査において[[金錯銘鉄剣]](稲荷山鉄剣)が後円部分から発掘される。[[1978年]]、この鉄剣に115文字の金象嵌の銘文が表されていることが判明した。1983年、他の出土品とともに「武蔵埼玉稲荷山古墳出土品」として[[国宝]]に指定される<ref group="注釈">国宝指定年度について、文化庁の「国指定文化財等データベース」、『週刊朝日百科 日本の国宝』など複数の資料に「1981年」とあるが、正しくは1983年である。指定の官報告示は昭和58年6月6日文部省告示第81号。</ref>
鉄剣や銘文の詳細は、[[鉄剣・鉄刀銘文]]や[[金錯銘鉄剣]]参照。
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粘土槨は、盗掘されていたが、鉄刀、挂甲、馬具などの断片が検出された。
出土品一括は「武蔵埼玉稲荷山古墳出土品」として、1981年に[[重要文化財]]、1983年に[[国宝]]に指定された。以下は国宝指定物件の明細である。出土品の名称・員数は国宝指定時の官報告示(昭和58年6月6日文部省告示第81号)に基づく
<table width="90%"><tr><td valign=top width="50%">
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== 未発見の埋葬施設 ==
この古墳の礫郭及び粘土郭は後円部の中央からややずれたところにあり、また二つの埋葬施設は出土した副葬品の編年から古墳築造時期より新しい6世紀前半に位置付けられるため<ref>(斎藤ほか 1980)129頁</ref>、中央にこの古墳の真の造墓者の為の主体部が有ると考えられている
また1937年に前方部を崩したときに石組みが出てきて、中から固まった鏃、錆びた刀などが出土したと伝えられている。
平成9年に行われた発掘調査では、後円部側の外堀から緑泥片岩などの岩石片がまとまって出土した。稲荷山古墳では[[葺石]]は確認されておらず、また最も大きいものは1.0×1.2m・重さ0.5tもあるため、これは石室石材として使われる予定だったものが運搬中に堀に転落し、回収されなかったものである可能性が高い<ref>(若松ほか2007)33頁</ref>。このことから未発見の主体部は割石積みの竪穴式石室(槨)が想定されている。
== 被葬者 ==
礫槨被葬者
ヲワケの出身をどのように考えることができるかで各種の説があるが、大きく三つの説に分けることができる。
# ヲワケを畿内[[ヤマト王権]]の有力首長とし、礫槨被葬者はその部下で、この鉄剣を下賜されたとする説<ref name=hashimoto>橋本博文 「東国における埼玉稲荷山古墳の位置づけ」『ワカタケル大王とその時代-埼玉稲荷山古墳』 31-68頁</ref><ref name=sakamoto /><ref name=siraisi>[[白石太一郎]] 「五世紀の前方後円墳の動向と稲荷山古墳」『稲荷山古墳の鉄剣を見直す』 109-121頁</ref>。オオヒコが阿倍臣・膳臣の祖であることから両氏の内の一人とみる。
# ヤマト王権の有力者であるが、東国に派遣されて礫槨の被葬者になったとする説<ref name=wada>和田萃 「ヲワケ臣とワカタケル大王」『稲荷山古墳の鉄剣を見直す』 122-131頁 なお和田は礫槨被葬者はヲワケ臣の子どもで、鉄剣はヲワケから礫槨被葬者に与えられた、とみている</ref>。
# ヲワケをヤマト政権に連合していた東国の首長とし、礫槨の被葬者とする説<ref name=kobayashi>小林敏男 「一一五文字の銘文が語る古代東国とヤマト王権」『稲荷山古墳の鉄剣を見直す』 94-108頁</ref>。
以上三つの説は、いずれも決定的な根拠は無い。
[[鉄剣・鉄刀銘文|王賜銘鉄剣]]によって、[[5世紀]]中葉期の関東の小首長が[[大王
また第一の説、第二の説では、日本書紀によると、534年、[[安閑天皇]]より笠原直使主(かさはらのあたいおみ)が武蔵国国造を任命され、埼玉郡笠原(現在の[[鴻巣市]]笠原)に拠点を持ったことが分かる。何の基盤も無い当地に、突如として畿内に匹敵する中型前方後円墳が出現したこと、鉄剣に彫られたヲワケの父の名のカサヒヨがカサハラとも読めることから、笠原を本拠としたとされる武蔵国国造の墓であるとする説もある{{要出典|date=2014年4月}}。
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
<references />▼
<references group="注釈" />
=== 出典 ===
▲ <references />
== 参考文献 ==
* [[上田正昭]]・[[大塚初重]]監修、金井塚良一(編) 『稲荷山古墳の鉄剣を見直す』 [[学生社]]、2001年6月
* 小川良祐・[[狩野久]]・[[吉村武彦]](編) 『ワカタケル大王とその時代-埼玉稲荷山古墳』 [[山川出版社]]、2003年5月
* [[斎藤忠]]ほか 『埼玉稲荷山古墳』 埼玉県教育委員会、1980年
* 若松良一ほか 『武蔵埼玉稲荷山古墳』 埼玉県教育委員会、2007年
== 関連項目 ==
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