「ゲネラール=アドミラール (装甲巡洋艦)」の版間の差分

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|colspan="2"|{{仮リンク|密度係数|it|Coefficiente_di_finezza}}{{訳語疑問点|date=2011年3月}}||0.58
|-align="center"
|colspan="3" style="color: #505050; background: gainsboro;"|[[エンジン|動力装置]]{{要曖昧さ回避|date=2014年6月}}
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|colspan="3"|[[蒸気船|機走]]([[ウォータージェット推進|噴水推進]])・[[帆船|帆走]]併用
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|style="white-space:nowrap"|{{仮リンク|チャールズ・ベアド|label=ベルト工場|ru|Берд,_Чарльз}}式[[レシプロエンジン|水平単式機関]]||1 基
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|[[ベルヴィル]]{{要曖昧さ回避|date=2014年6月}}社製{{仮リンク|煙管ボイラー|en|Fire-tube_boiler}}||12 基
|-
|style="white-space:nowrap"|{{仮リンク|図示出力|ru|Индикаторная_мощность}}(計画値)||3500 [[馬力]]
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|colspan="2"|{{仮リンク|砲廓|ru|Каземат}}||152 mm
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|colspan="2"|[[甲板]]{{要曖昧さ回避|date=2014年6月}}||13 mm
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|colspan="3" style="color: #505050; background: gainsboro;"|要目の[[Wikipedia:出典を明記する|出典]]
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「ゲネラール=アドミラール」は、ロシア帝国で初めて[[鉄]]製の[[船体]]に防禦[[装甲]]を持った[[巡洋艦]]として設計された[[ゲネラール=アドミラール級装甲巡洋艦|「ゲネラール=アドミラール」級装甲巡洋艦]]の[[ネームシップ]]として建造された<ref name="Krestiyaninov2003-3-3"/>。
 
[[日本]]の[[鎖国]]の終焉によって[[極東]]方面の艦隊戦力の増強を迫られたロシア帝国は、老朽化した木造蒸気巡洋艦を置換え、極東と[[地中海]]での海軍プレゼンスの要求を満たすために、新たに 4&nbsp;つの巡洋艦分遣隊を設置することとした<ref name="TARGET&ZVO">{{Lang|ru|[[#TARGET&ZVO|Смирнов, Г.; Смирнов, В. (1978)]].}}</ref>。その 4&nbsp;隊の軸となるのはそれぞれ 1&nbsp;隻ずつ割り当てられる装甲コルベットであり、[[1860年代]]中頃からその設計が開始された。計画は、 {{仮リンク|アンドレイ・アレクサンドロヴィチ・ポポーフ|label=A・A・ポポーフ|ru|Попов,_Андрей_Александрович<!-- 曖昧さ回避ページ -->}}[[海軍少将]]が中心となって進められた<ref name="TARGET&ZVO"/>。
 
当初の計画では、木造フリゲート「{{仮リンク|ゲネラール=アドミラール_(フリゲート)|label=ゲネラール=アドミラール|en|Russian_frigate_General_Admiral}}」を改修して[[再使用|再利用]]することが検討された。しかし、その修理にはあまりに多くの費用が掛かり、[[コストパフォーマンス|費用対効果]]が悪かった。この工事を行う代わりに、船体水上部分のすべてを鉄製に作り変え、厚み 203&nbsp;mm の装甲帯を貼り付ける案が出された。しかし、この案でも機関換装が必要であるため費用は 96&nbsp;万[[ロシア・ルーブル|ルーブリ]]に上った。既存艦の再利用は断念され、名前をそのままに金属製船体を持ったフリゲートを新造することに決定した<ref name="Krestiyaninov2003-3-3"/>。
 
=== 艤装 ===
ポポーフの指導の下、 {{仮リンク|ニコライ・エヴラーンピエヴィチ・クテーイニコフ|label=N・Ye・クテーイニコフ|ru|Кутейников,_Николай_Евлампиевич}}によって設計は仕上げられた設計では、次のような仕様になっていた。鉄製の船体は、{{仮リンク|装甲帯|en|Belt_armor}}の高さに当たる鋼製の下層[[甲板]]{{要曖昧さ回避|date=2014年6月}}を持っていた。[[レシプロエンジン|垂直蒸気機関]]は{{仮リンク|公称出力|ru|Нарицательная_мощность}}で 900&nbsp;[[馬力]]、{{仮リンク|図示出力|ru|Индикаторная_мощность}}で約 6300&nbsp;馬力の出力を持っており、これによって 14&nbsp;[[ノット|kn]] の{{仮リンク|速力|ru|Скорость_корабля}}を発揮することができる設計になっていた。[[燃料]]となる[[石炭]]の積載量は 736&nbsp;[[トン|t]] で、[[航続距離]]は 1800&nbsp;[[海里]]であった。艦はまた、[[面積]] 2450&nbsp;[[平方メートル|m<sup>2</sup>]] の全[[帆]]装を有した。{{仮リンク|スポンソン|ru|Спонсон}}状に船体から外へ張り出した{{仮リンク|砲廓|ru|Каземат}}には[[1867年式_8_dm_砲|1867年式 21.9&nbsp;口径 8&nbsp;インチ(203&nbsp;mm)砲]]<ref name="Shirokorad1997-19">{{Lang|ru|2=“[http://wunderwaffe.narod.ru/Magazine/MK/1997_02/19.htm 8" (203-мм) пушки обр.1867 г.]”, [[#Shirokorad1997|Широкорад, А. Б. (1997)]].}}</ref> 4&nbsp;門を装備し、なおかつそれらは反対側の[[舷側]]に移動することもできた。[[船首]]と[[船尾]]には、それぞれ 1&nbsp;門の[[1867年式_6_dm_および_6.03_dm_砲|1867年式 23.3&nbsp;口径 6&nbsp;インチ(152&nbsp;mm)砲]]<ref name="Shirokorad1997-14">{{Lang|ru|2=“[http://wunderwaffe.narod.ru/Magazine/MK/1997_02/14.htm 6,03" и 6" пушки обр.1867 г.]”, [[#Shirokorad1997|Широкорад, А. Б. (1997)]].}}</ref>が旋回式[[砲座]]の上に設置された<ref name="Krestiyaninov2003-3-3"/>。そのほか、[[1867年式_4_ポンド砲|1867年式 19.7&nbsp;口径 4&nbsp;ポンド(86.87&nbsp;mm)砲]]<ref>{{Lang|ru|2=“[http://wunderwaffe.narod.ru/Magazine/MK/1997_02/07.htm 4-фн и 9-фн пушки обр.1867 г.]”, [[#Shirokorad1997|Широкорад, А. Б. (1997)]].}}</ref> 7&nbsp;門、[[1867年式_3_ポンド銅砲|1867年式 9.8&nbsp;口径 3&nbsp;ポンド(76.2&nbsp;mm)上陸砲]]<ref>{{Lang|ru|2=“[http://wunderwaffe.narod.ru/Magazine/MK/1997_02/06.htm Десантные пушки]”, [[#Shirokorad1997|Широкорад, А. Б. (1997)]].}}</ref> 2&nbsp;門、{{仮リンク|オチキス式_47_mm_回転砲身砲|label=オチキス式 25&nbsp;口径 47&nbsp;mm 5&nbsp;砲身砲|pl|Hotchkiss_M1879}} 8&nbsp;門、{{仮リンク|オチキス式_37_mm_回転砲身砲|label=オチキス式 20&nbsp;口径 37&nbsp;mm 5&nbsp;砲身砲|de|37-mm-Hotchkiss-Kanone}} 4&nbsp;門、381&nbsp;mm 水中舷側[[魚雷発射管|魚雷装置]] 2&nbsp;門である<ref>{{Lang|ru|“[http://www.keu-ocr.narod.ru/Cruisers/chap08.html ПРИЛОЖЕНИЕ 1 (Таблицы). Броненосные и полуброненосные фрегаты]”, [[#Krestiyaninov2003|Крестьянинов, В. Я. (2003)]].}}</ref>。 76.2&nbsp;mm 上陸砲は、最終的に {{仮リンク|バラノーフスキイ式_2.5_in_速射砲|label=バラノーフスキイ式 20&nbsp;口径 2.5&nbsp;インチ(63.5&nbsp;mm)上陸砲|ru|Скорострельная_пушка_Барановского}} 2&nbsp;門になった<ref>{{Lang|ru|“[http://www.keu-ocr.narod.ru/Cruisers/chap08.html ПРИЛОЖЕНИЕ 1 (Таблицы). Броненосные и полуброненосные фрегаты]”, [[#Krestiyaninov2003|Крестьянинов, В. Я. (2003)]].}}</ref>。
 
=== 建造 ===
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[[1900年代]]になると、練習艦として使用されていた「ゲネラール=アドミラール」を[[水雷母艦|水雷輸送船]]({{Lang|ru|минный транспортъ}})へ改装する計画が持ち上がった。設計は、クロンシュタット港支部で作成された。[[バルト海]]の[[機雷砲兵陣地]]で運用するため、艦には大きな[[機雷]]搭載能力が付与されることになった<ref name="Apalkov1996-102"/>。
 
1909年には「ゲネラール=アドミラール」は機雷敷設艦に改装され、艦名も「ナローヴァ」に改められた。改修工事に伴い、排水量は、 4960&nbsp;t となった。出力 4000&nbsp;馬力の垂直単式機関 1&nbsp;基を搭載し、試験の際に記録した速力は 11.4&nbsp;kn であった<ref name="Apalkov1996-102"/>。燃料は、 400 ないし 540&nbsp;t の石炭を搭載した。乗員は 283&nbsp;名であった<ref name="Apalkov1998">{{Lang|ru|“[http://wunderwaffe.narod.ru/Magazine/MK/1998_04/08.htm Минно-тральные корабли]”, [[#Apalkov1998|Апальков, Ю. В. (1998)]].}}</ref>。砲熕兵装は大幅に減じられ、カネー式 50&nbsp;口径 75&nbsp;mm 砲 4&nbsp;門と [[マキシム機関銃|7.62&nbsp;mm 機関銃]] 4&nbsp;挺だけであった。そのかわりに[[機雷]]を多数搭載できるようになり、[[1912年式機雷]]で最大 658&nbsp;個搭載できた<ref name="Apalkov1996-102"/>。また、のちに[[マルコーニ]]{{要曖昧さ回避|date=2014年6月}}式[[1911年]]型[[無線機|無線装置]]も搭載された<ref name="Apalkov1996-102"/>。
 
[[1913年]]から[[1914年]]にかけて、[[クロンシュタット海洋工場|クロンシュタット蒸気船工場]]において[[オーバーホール]]を受けた。この際、従来の{{仮リンク|煙管ボイラー|en|Fire-tube_boiler}}を 6&nbsp;基の[[ベルヴィル]]{{要曖昧さ回避|date=2014年6月}}式{{仮リンク|水管ボイラー|en|Water-tube_boiler}}に換装する改修工事を受けた。そのほか、第2船底の床の張替え、機雷庫の改装、[[スクリューシャフト]]の修繕が行われた。工事完了後、機雷敷設艦分遣隊に編入された<ref name="Apalkov1996-102"/>。
 
=== 第一次世界大戦 ===
[[第一次世界大戦]]では、[[フィンランド湾]]における[[機雷戦|機雷敷設作戦]]に参加した。[[1917年]]2月の[[2月革命_(1917年)|二月革命]]ののちは、[[ロシア臨時政府]]の管轄下に置かれた。同年[[10月25日]]<ref group="暦" name="7noy"/>に発生した[[ボリシェヴィキ]]による[[十月革命]]ののちは{{仮リンク|ロシア社会主義連邦ソビエト共和国<!-- リダイレクト先の「[[ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国]]、[[:ru:Российская Советская Федеративная Социалистическая Республика]] とリンク -->|ru|Советская_Россия_(государство)}}政府の管轄下に置かれ、赤色バルト艦隊へ編入された。[[1918年]]4月には[[フィンランド王国]]と同盟した[[ドイツ帝国]]軍から逃れるため、フィンランド湾のロシア艦隊は{{仮リンク|バルト艦隊の氷中行軍|label=氷海の中を出港|ru|Ледовый_поход_Балтийского_флота}}する必要に迫られたが、「ナローヴァ」は出港が不可能であったため、[[4月12日]]に[[ヘルシンキ|ゲリシンクフォールス]]に置き去りにされた。そのため、ゲリシンクフォールスを占領した{{仮リンク|ドイツ帝国軍|de|Deutsches_Heer_(Deutsches_Kaiserreich)}}に奪取された。同年[[5月14日]]には、[[ブレスト=リトフスク条約]]と[[ハンコ]]合意に基づきロシアへ返還され、クロンシュタットへ帰港した。同年8月から11月にかけて、クロンシュタット港への入り口を防衛するための機雷敷設任務に従事した。最も稼動状態が高く保たれている艦船が集められた、事実上唯一の実働部隊である{{仮リンク|バルト艦隊艦船作戦隊|ru|Действующий_отряд_кораблей_Балтийского_флота}}に編入された<ref name="Apalkov1996-102"/>。
 
1920年2月1日には、練習船に類別を変更された。[[1921年]][[4月21日]]付けで、バルト海海軍に編入された。[[1922年]][[5月12日]]から1924年[[3月14日]]まで、[[予備役]]に入れられた。1924年7月11日には再び機雷敷設艦となり、[[1935年]][[1月11日]]付けで赤旗勲章受章バルト艦隊所属となった。1937年には、自走浮き基地へ類別を変更された<ref name="Apalkov1996-102"/>。