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== 沿革 ==
「報道・解説・評論」を3本の柱として、『[[週刊新潮]]』創刊による週刊誌ブームと週刊誌創刊ラッシュの渦中の[[田中慎次郎]]出版局長の下、[[1959年]]に創刊された<ref name="asa">『朝日新聞』1992年4月16日号。</ref><ref>野村尚吾『週刊誌五十年』[[毎日新聞社]]、1973年、p.320.</ref><ref>[[神足裕司]]「[[団塊世代]]と新人類の近くて遠い仲 朝日ジャーナルと[[SPA!]]の共通点と相違点」『別冊宝島345 雑誌狂時代!』宝島社、1997年、pp.36-40。</ref>。当初、創刊編集長には『[[週刊朝日]]』を100万部雑誌に育て上げた[[扇谷正造]]が就任する予定だったが、編集方針の食い違いから更迭され、[[朝日新聞大阪本社]]の論説委員である和田斉がその任にあたった。創刊号の1959年3月15日号は定価40円、発行部数は37万部。当時の朝日新聞社にとっては、『週刊朝日』『[[アサヒグラフ]]』に次ぐ第3の週刊誌であった<ref name="100nen">塩澤実信「高級週刊誌『朝日ジャナール』の栄光と挫折」『雑誌100年の歩み 時代とともに誕生し盛衰する流れを読む 1874-1990』グリーンアロー出版社、1994年、pp.191-200.</ref>。
[[ベトナム反戦運動]]や[[安保闘争]]、[[文化大革命]]を背景に<ref name="asa" />[[1960年代]]から[[1970年代]]には隆盛を極めた。「[[全学共闘会議|全共闘]]運動」とも言われた左翼運動が盛んだった[[1969年]]には、[[早稲田大学]]新聞に「右手にジャーナル、左手にマガジン(『[[週刊少年マガジン]]』)」と書かれた<ref>中野晴行『マンガ産業論』[[筑摩書房]]、2004年、p.103。</ref><ref>『朝日ジャーナル』と『週刊少年マガジン』は同日発売のため同時購入することを表現したもの([[石子順造]]『戦後マンガ史ノート』[[紀伊國屋書店]]、1980年、p.130)。</ref>。このフレーズは当時「手にはジャーナル、心はマガジン」<ref>[[夏目房之介]]『笑う長嶋』[[太田出版]]、1998年、p.188。</ref>「右手にジャーナル、左手にパンチ(『[[平凡パンチ]]』)」とも喧伝され<ref>休刊を報じる『朝日新聞』1992年4月16日号で、当時の『[[平凡パンチ]]』編集長の[[甘糟章]]は、『平凡パンチ』の併読誌は『朝日ジャーナル』がトップだったと発言。</ref>、左翼的思想を支持する当時の「全共闘世代」、「[[団塊の世代]]」によく購読されていた<ref name="mai">『毎日新聞』1992年4月16日号。</ref>。[[1968年]]の下半期が『朝日ジャーナル』の最盛期で、平均部数は26万部であった。[[1967年]]5月には、対抗誌として[[恒文社]]から『潮流ジャーナル』という週刊誌も創刊された。
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