「本寿院 (徳川吉通生母)」の版間の差分

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綱誠の死去後は藩主生母として藩政に介入し、尾張藩の国元の家臣、江戸藩邸の家臣から本寿院に対して憎悪が増すこととなった。本寿院は強欲な女性としても知られている。また、朝日重章の記した「[[鸚鵡籠中記]]」によると「貪淫絶倫」であり、たくさんの男性と性的関係にあり、「幽閉された後も庭木に[[女性器]]を擦りつけていた」と書かれている。しかし、これには異説もあり、「藩政関与に反発した家臣が有らぬことまで噂として広めた」という説もある。
 
宝永2年([[1705年]])6月、尾張藩の重職たちによって藩主吉通から遠ざけられ、元々[[松平友著]]が住していた屋敷に転居させられる。芝居にのめり込んだのか歌舞伎役者[[生島新五郎]]の実弟で同じく歌舞伎役者であった生島大吉との逢瀬を疑われ、江戸の四谷屋敷に幽閉させられる。この月、五代将軍[[徳川綱吉]]の実母[[桂昌院]]が逝去しており、幕府より蟄居させるようにとの命令があった。
正徳3年7月26日([[1713]]年9月15日)、実子である尾張藩主[[徳川吉通]]が四谷屋敷に来訪し饗応を受けるが、その夜に吉通は急逝する。
 
享保9年([[1714年]])に名古屋に移され御下屋敷に謹慎させられる。
 
享保15年12月([[1731年]]1月)、尾張藩七代藩主となった[[徳川宗春]]により謹慎が解かれた。宗春が藩主になって最初に出した命令の一つである。その後、名古屋祭(名古屋東照宮祭)・名古屋祇園祭などに街中に顔を出した記録があり、晩年は穏やかに生活した。
 
[[元文]]4年2月([[1739]]年3月)、宗春が隠居謹慎させられた二ヶ月後に、名古屋御下屋敷内で逝去。
 
尾張藩内での本寿院の血統は断絶したが、嫡男、吉通の子の[[信受院]](千姫・徳川三千)は内大臣[[九条幸教]]に嫁いでおり、その子孫は九条家を通し、二条家などに連なり、現在も子孫は多数いる。
 
 
 
== 演じた俳優 ==