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| 氏族 = [[島津氏]]
| 父母 = 父:[[島津家久]]、母:[[樺山善久]]女
| 兄弟 = '''[[島津豊久'''|豊久]]、[[島津忠仍|忠仍]]、女([[禰寝重張]]室)、女([[佐多久慶]]室)、女([[島津久信]]室、[[相良頼安]]室)
| 妻 = 正室:[[島津忠長]]女
| 子 = なし
| 特記事項 =
}}
'''島津 豊久'''(しまづ とよひさ)は、[[安土桃山時代]]の[[武将]]。[[島津氏]]の家臣。名は初めは島津忠豊で後に改名した
 
== 生涯 ==
[[元亀]]元年([[1570年]])、[[島津家久]]の子として誕生する。[[天正]]12年([[1584年]])3月の[[沖田畷の戦い]]に初陣、同年4月14日に[[肥後国]]にて[[元服]]を果
 
[[天正]]12年([[1584年]])3月の[[沖田畷の戦い]]に初陣であるが、この戦いの直前の早朝、父家久は、15歳の豊久に「あっぱれな武者振り、ただ上帯の結び方はこうするのだ」と結び直して脇差でその帯端を切った。そしてり、「よく聞け。もし軍に勝って討死しなければ、この上帯は我が解こう。だが今日の軍で屍を戦場に晒す時は、切った上帯を見て、島津が家に生まれた者の思い切ったる所作と敵も知り、我もその死を喜ぼう」と言ったと言う。沖田畷において家久・豊久父子は奮戦し、勝利して無事に帰還した後、家久は豊久の帯を解いたといわれる<ref group="註">『常山紀談』</ref>。
天正15年([[1587年]])、父・家久が死去し、その跡を継いで[[日向国|日向]][[佐土原城]]([[宮崎市]][[佐土原町]])の城主となる。この年、[[島津氏]]は[[豊臣秀吉]]に降伏し、家久が[[豊臣氏]]の陣中に赴いて後に急死したため暗殺や毒殺ともいわれるが、あらぬ疑いを避けるためか秀吉は豊久に特別に所領を与えるよう[[島津義弘]]に命じたといわれる。また、父の死後は伯父の義弘が実子同様に養育したといわれ、そのために義弘に恩義を感じていたという説もある。その後、豊臣氏による[[小田原征伐]]や[[文禄・慶長の役]]などに従軍し各地を転戦した。また、[[慶長]]4年([[1599年]])に起こった[[庄内の乱]]に出陣し武功を上げた。
 
同年4月14日に[[肥後国]]にて[[元服]]を果たした。
[[File:Monument of Shimazu Toyohisa.jpg|thumb|関ヶ原の戦いでの島津豊久奮戦の地(烏頭坂)に立つ島津豊久碑(岐阜県大垣市上石津町)]]
慶長5年([[1600年]])に[[関ヶ原の戦い]]が起ると伯父の義弘と共に西軍として参陣した。しかし、義弘は自らが提案した夜襲を聞き入れなかった西軍への不信から戦闘には参加せず、豊久も積極的な戦闘を起こさなかった。やがて、戦いが東軍優位となると島津隊は戦場で孤立する形となり、退路を断たれた義弘は切腹する覚悟を決めるが、豊久に撤兵を促されて、結局義弘以下の島津隊は家康本陣を掠める形で[[伊勢街道]]方面に撤退する(島津の退き口)。豊久はこの戦闘において先陣を務めたが、東軍の追撃は激しく島津隊も多数の犠牲を出し、豊久も義弘の身代わり([[捨て奸]])となって[[戦死|討死]]した。
 
天正15年([[1587年]])、父家久が死去し、その跡を継いで[[日向国|日向]][[佐土原城]]([[宮崎市]][[佐土原町]])の城主となった。この年、[[島津氏]]は[[豊臣秀吉]]に降伏し、家久[[豊臣氏]]の陣中に赴いて帰った後に急死したため暗殺や毒殺ともいわれるが、あらぬ疑いを避けるためか秀吉は豊久に特別に所領を与えるよう[[島津義弘]]に命じたといわれる。また、父の死後は伯父の義弘が実子同様に養育したといわれ、そのために義弘に恩義を感じていたという説もある。その後、豊臣氏による[[小田原征伐]]や[[文禄・慶長の役]]などに従軍し各地を転戦した。また、[[慶長]]4年([[1599年]])に起こった[[庄内の乱]]に出陣し武功を上げた。
一説に瀕死の重傷を負いながらも戦場を離脱したが、その日の夜に戦傷が原因で死去したとも伝わる<ref name="楠戸159">楠戸義昭『戦国武将名言録』P159</ref>。
 
慶長5年([[1600年]])に[[関ヶ原の戦い]]が起ると伯父の義弘と共に西軍として参陣した。しかし、義弘は自らが提案した夜襲を聞き入れなかった西軍への不信から戦闘には参加せず、豊久も積極的な戦闘を起こさなかった。[[石田三成]]の家臣である[[八十島助左衛門]]が助勢を要請に来た際、下馬せずに馬上から申し出た事に激怒し、怒鳴り返して追い返したと伝わる。
[[Fileimage:Monument of Shimazu Toyohisa.jpg|thumb|関ヶ原の戦いでの島津豊久奮戦の地(烏頭坂)に立つ島津豊久碑(岐阜県大垣市上石津町)]]
関ヶ原合戦で西軍壊滅し、戦いが東軍優位となると島津軍が隊は戦場で孤立した際する形となり退路を断たれた義弘は切腹する覚悟を決めた。しかし豊久は戦後にやってくる難局に立ち向かうには伯父義弘が生きて帰る事が必要だと感じ<ref name="楠戸158">楠戸義昭『戦国武将名言録』P158</ref>、「天運は既に窮まる。戦うというも負けは明らかなり。我もここに戦死しよう。義弘公は兵を率いて薩摩に帰られよ。国家の存亡は公(義弘)の一身にかかれり」と述べ<ref group="註">『惟新公関原御合戦記』</ref>撤兵を促した。これで意を決した義弘は、家康本陣を掠める形で[[伊勢街道]]方面に撤退することにした(島津の退き口)。豊久はこのやっおい殿軍を務めたが、東軍の追撃は激しる難局に立ち向かうに島津隊も多数の犠牲を出した。豊久伯父が生き義弘の身代わり([[捨奸]])となって[[戦死|討死]]したとす必要定説と感じてが、一説には瀕死の重傷を負ながらも戦場を離脱しが、そ日の夜に戦傷が原因死去したとも伝わる<ref name="楠戸158159">楠戸義昭『戦国武将名言録』P158P159</ref>。いずれにしても、この豊久の決死の活躍で、これに立ち塞がった徳川軍の[[井伊直政]]に命取りとなる鉄砲疵を負わせ義弘は無事に薩摩に帰還する事ができたのであった<ref name="楠戸159"/>。
 
戦後、領地の佐土原は無嗣断絶の扱いでいったん[[徳川氏]]に接収された後、一族の[[島津以久]]が入った。豊久には子供が無く、家は姪の婿である[[島津忠栄|喜入忠栄]]が相続した。しかしその系統も[[寛永]]元年([[1624年]])に断絶。後に18代当主・[[島津忠恒|島津家久(忠恒)]]の子・[[島津久雄_(永吉島津家)|久雄]]が継嗣に入り、[[永吉島津家]]として残る。
 
== 逸話 ==
=== 沖田畷の戦い ===
沖田畷の戦いが初陣であるが、この戦いの直前の早朝、父が15歳の豊久に「あっぱれな武者振り、ただ上帯の結び方はこうするのだ」と結び直して脇差でその帯端を切った。そして「よく聞け。もし軍に勝って討死しなければ、この上帯は我が解こう。だが今日の軍で屍を戦場に晒す時は、切った上帯を見て、島津が家に生まれた者の思い切ったる所作と敵も知り、我もその死を喜ぼう」と言った。沖田畷において家久・豊久父子は奮戦し、勝利して無事に帰還した後、家久は豊久の帯を解いたといわれる<ref group="註">『常山紀談』</ref>。
 
=== 関ヶ原の戦い ===
関ヶ原合戦で西軍が壊滅して島津軍が孤立した際、豊久は伯父の義弘に「天運は既に窮まる。戦うというも負けは明らかなり。我もここに戦死しよう。義弘公は兵を率いて薩摩に帰られよ。国家の存亡は公(義弘)の一身にかかれり」と述べた<ref group="註">『惟新公関原御合戦記』</ref>。豊久は戦後にやってくる難局に立ち向かうには伯父が生きて帰る事が必要だと感じていたのである<ref name="楠戸158">楠戸義昭『戦国武将名言録』P158</ref>。この豊久の決死の活躍で徳川軍の名将・[[井伊直政]]に命取りとなる鉄砲疵を負わせて義弘は無事に薩摩に帰還する事ができたのであった<ref name="楠戸159"/>。
 
[[石田三成]]の家臣である[[八十島助左衛門]]が助勢を要請に来た際、下馬せずに馬上から申し出た事に激怒し、怒鳴り返して追い返したと伝わる。
 
== 墓所 ==
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*[[戦国無双4]](血気盛ん且つ一途な性格で、失敗を糧にして成長を続ける若きもののふという設定 / 武器は大鉞 / 声:[[宮坂俊蔵]])
 
== 脚注・出典 ==
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=== 註釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
;書籍
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== 外部リンク ==
* [http://n-hp.com/navigate/public/mu8/bin/view.rbz?cd=63 島津豊久の碑] 関ケ原町地域振興課
{{-}}
 
{{島津氏歴代当主|永吉島津家|第2代|1587年 - 1600年}}
 
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[[Category:永吉島津氏|とよひさ]]
[[Category:戦国武将]]
[[Category:文禄・慶長の役の人物]]
[[category:織豊政権の大名]]
[[Category:1570年生]]