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しかし、持長と光康の対立は以後も継続し、一時は持長(府中小笠原家)が守護職を襲うなど混乱は続いた。甥で宗康の遺児の[[小笠原政秀]]もまた勢力をもち(鈴岡小笠原家)、政秀と光康の子[[小笠原家長|家長]]もまた争うようになる。長年の守護家の混乱は信濃における守護の権威そのものの失墜につながり、信濃においては、守護に代わりそれぞれの地域の有力国人が独自の安堵状を発付するようになった。
 
[[関東]]で[[享徳の乱]]が発生した時、光康は幕府から[[駿河国|駿河]]守護[[今川範忠]]・[[越後国|越後]]守護[[上杉房定]]と共に関東出陣を度々命じられたが、[[古河公方]][[足利成氏]]に通じる府中の小笠原清宗が反対国人衆と結託て光康の出陣に反対しなかなか発向できない有様であったとされる。
 
将軍[[足利義政]]は[[康正]]2年([[1456年]])、光康に対し清宗討伐を、また[[寛正]]6年([[1465年]])、幕府は光康と上杉房定に対し、[[古河公方]][[足利成氏]]に通じる[[村上政清]]と[[高梨政高]]の討伐をそれぞれ命じた。
 
== 参考文献 ==
*長野県 編『長野県史 通史編 第3巻 中世2』長野県、1987年
*古川貞雄 編『県史20 長野県の歴史』[[山川出版社]]、1997年