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'''諏訪 忠晴'''(すわ ただはる)は、[[信濃国|信濃]][[高島藩]]の第3代藩主。第2代藩主[[諏訪忠恒]]の長男。
[[明暦]]3年([[1657年]])、父の死去により跡を継ぐ。このとき、[[筑摩郡]]5000石のうち、弟の[[諏訪頼蔭|頼蔭]]と[[諏訪頼久|頼久]]に
藩政においては[[宗門改め]]や[[検地]]を行なって藩政の整備に努めた。また、[[天和 (日本)|天和]]元年([[1682年]])には[[高田城]]在番と高田領内の検地を務めた功績<ref>天和元年([[1681年]])の[[高田藩]]の[[松平光長]]改易後の4年間は1年交代で、近隣の大名2家ずつが選ばれ、高田城に在城で城番を務めた。忠晴の時の相方は同じ信濃国の[[上田藩]]主の[[仙石政明]]と思われる。</ref>により、天和3年([[1683年]])7月28日に幕府より恩賞を授かっている。その後も[[大坂城]]山里御門番、江戸火消役などを務めた。文化人としても優れており、武家伝記である『本朝武林小伝』7巻とその続編である35巻を編纂し、[[狩野派]]の絵も良くした。元禄8年(1695年)3月2日に57歳で死去し、跡を三男の[[諏訪忠虎|忠虎]]が継いだ。
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