「小笠原政康」の版間の差分
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| 死没 = [[嘉吉]]2年[[8月9日 (旧暦)|8月9日]]([[1442年]][[9月22日]])
| 改名 =
| 別名 = 豊松丸(幼名)
| 戒名 =
| 墓所 =
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| 主君 = [[足利義持]]→[[足利義量|義量]]→[[足利義教|義教]]→[[足利義勝|義勝]]
| 氏族 = [[小笠原氏]]
| 父母 = 父:[[小笠原長基]] 母:[[武田信春]]の娘
| 兄弟 = [[小笠原氏|長将]]、[[小笠原長秀|長秀]]、'''政康'''
| 妻 =
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'''小笠原 政康'''(おがさわら まさやす)は、[[室町時代]]の[[武将]]、[[守護大名]]。[[信濃国|信濃]]守護。[[小笠原長基]]の3男で[[小笠原氏|長将]]、[[小笠原長秀|長秀]]の弟。[[小笠原宗康|宗康]]、[[小笠原光康|光康]]の父。
[[小笠原氏]]は曾祖父[[小笠原貞宗|貞宗]]が[[足利尊氏]]に仕えた功績で信濃守護を世襲したが、隠居した父の後を継いだ次兄長秀が[[国人]]衆の反感を買い、[[大塔合戦]]に敗れて[[応永]]8年([[1401年]])に信濃守護職を取り上げられ、信濃は[[室町幕府]]の直轄領となった。 政康は[[嘉慶 (日本)|嘉慶]]2年([[1338年]])に13歳で元服し、応永12年([[1405年]])に兄から家督と小笠原氏の所領を譲られた。
応永23年([[1416年]])に[[関東地方|関東]]で発生した[[上杉禅秀の乱]]鎮定に[[駿河国|駿河]]守護[[今川範政]]や[[越後国|越後]]守護[[上杉房方]]と共に出陣して以後、将軍家に反抗的な関東足利氏への抑え役として4代[[征夷大将軍|将軍]][[足利義持]]から重用され、応永32年([[1425年]])に信濃守護職に任命された。また[[正長]]元年(1428年)の[[正長の土一揆]]に対して上洛し一揆勢の鎮圧にあたった。
[[永享]]4年([[1432年]])には6代将軍[[足利義教]]の弓馬師範に推挙された。[[永享]]8年([[1436年]])に[[鎌倉公方]][[足利持氏]]と通じた[[村上頼清]]と[[依田氏|芦田氏]]討伐を果たし、
永享10年([[1438年]])の[[永享の乱]]では[[上野国]]に出陣し[[平井城]]に向けて北上する持氏方の軍勢を討ち破った。永享12年([[1440年]])の[[結城合戦]]にも信濃武士を統べて参戦しており、『結城陣番帳』にその諸将の名が見える。
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== 参考文献 ==
*『東筑摩郡・松本市・塩尻市誌 歴史編上巻』1973年。
*[[長野県]]編『長野県史 通史編 第3巻 中世2』長野県、1987年。
*[[古川貞雄]]・[[福島正樹]]・[[井原今朝男]]・[[青木歳幸]]・[[小平千文]]『県史20 長野県の歴史』[[山川出版社]]、1997年。
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