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| 作品名 = 我等の生涯の最良の年
| 原題 = The Best Years of Our Lives
| 画像 = Best Years of Our Lives.jpg
| 画像サイズ = 325px
| 画像解説 = (左から右へ)[[ホーギー・カーマイケル]]、[[フレドリック・マーチ]]、[[マーナ・ロイ]]、[[ダナ・アンドリュース]]、[[テレサ・ライト]]
| 画像解説 =
| 監督 = [[ウィリアム・ワイラー]]
| 製作総指揮 =
| 製作 = [[サミュエル・ゴールドウィン]]
| 脚本 = {{仮リンク|ロバート・E・シャーウッド|en|Robert E. Sherwood}}
| 原作 = ''『Glory for Me』''<br />[[マッキンレー・カンター]]
| 出演者 = [[マーナ・ロイ]]<br />[[フレリック・マーチ]]<br />[[マーナ・ロイアンドリュース]]<br />[[テレサ・ライト]]<br />[[ダナ・ヴァージニ・メイヨ]]<br />[[ハロルリュース・ラッセル]]
| 音楽 = [[ヒューゴー・フリードホーファー]]
| 撮影 = [[グレッグ・トーランド]]
| 編集 = [[ダニエル・マンデル]]
| 製作会社 = {{仮リンク|サミュエル・ゴールドウィン・プロダクションズ|en|Samuel Goldwyn Productions}}
| 製作会社 =
| 配給 = {{flagicon|USA}} [[RKO]]<br />{{flagicon|JPN}} セントRKOジオピクチャーズ]]
| 公開 = {{flagicon|USA}} 1946年11月21日([[ニューヨーク|NY]])<br />{{flagicon|JPN}} 1948年6月15日<ref>{{cite web|url=http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=26238|title=我等の生涯の最良の年(1946)|publisher=[[allcinema|Allcinema.net]]|accessdate=2015年1月27日}}</ref>
| 上映時間 = 172分
| 製作国 = {{USA}}
| 言語 = [[英語]]
| 製作費 = 210万ドル<ref>[[#Thomson(1993年)|Thomson(1993年)]] pp.490-491</ref>
| 興行収入 = {{flagicon|USA}}{{flagicon|CAN}} 3365万ドル<ref>{{Cite web|url=http://www.boxofficemojo.com/movies/?id=bestyearsofourlives.htm|title=The Best Years of Our Lives|publisher=[[Box Office Mojo|BoxOfficeMojo.com]]|language=英語|accessdate=2015年1月27日}}</ref>
| 興行収入 = 3365万ドル {{flagicon|USA}}
| 前作 =
| 次作 =
}}
{{External media
『'''我等の生涯の最良の年'''』(われらのしょうがいのさいりょうのとし、{{lang-en-short|''The Best Years of Our Lives''}})は、[[1946年]]の[[アメリカ合衆国の映画|アメリカ映画]]。[[アカデミー賞]]では[[アカデミー作品賞]]をはじめ、8部門で受賞した。また[[アメリカ国立フィルム登録簿]]に1989年登録された作品でもある。
|width=275px
|video1=[http://www.tcm.com/mediaroom/video/715164/Best-Years-Of-Our-Lives-The-Movie-Clip-Wanna-See-The-Freak-.html 『我等の生涯の最良の年』のムービー・クリップ+予告編<br />映画専門チャンネル「ターナー・クラシック・ムービーズ」が公式サイトにアップロードしている動画6本)]
}}
[[File:Harold Russell and Cathy O'Donnell.jpg|right|275px|thumb|[[ハロルド・ラッセル]]と[[キャシー・オドネル]]]]
『'''我等の生涯の最良の年'''』(われらのしょうがいのさいりょうのとし、{{lang-en-short|''The Best Years of Our Lives''}})は、[[1946年]]に製作かつ公開された[[アメリカ合衆国の映画]]である。[[アカデミー賞]]では[[アカデミー作品賞]]をはじめ、[[アービング・G・タルバーグ賞|アービング・G・タルバーグ記念賞]]を含めた場合では史上最多の9部門で受賞した<ref name="バーグ281">[[#バーグ(1990年)|バーグ(1990年)]] p.281</ref>。[[トーキー]]になってからの映画の[[興行成績]]としても『[[風と共に去りぬ (映画)|風と共に去りぬ]]』以来の第2位を記録している。
 
また、1989年に[[アメリカ国立フィルム登録簿]]に登録された作品でもある。
 
== ストーリー ==
[[第二次世界大戦]]が終結した。アル・スティーブンソン、フレッド・デリー、ホーマー・パリッシュという名の3人の帰還兵が同じ[[輸送機|軍用輸送機]]に乗り合わせ、ブーンシティ([[オハイオ州]][[シンシナティ]]をベースにした[[架空]]の都市<ref>[[#Orriss(1985年)|Orriss(1985年)]] p.119</ref>)に帰ってきた<ref>映画『我等の生涯の最良の年』2-12分</ref>。
[[第二次世界大戦]]が終わり、出征した3人の男が同じブーンの町に帰ってきた。中年の銀行員アル(フレデリック・マーチ)を出迎えたのは、妻ミリー(マーナ・ロイ)と、すっかり成長した娘ペギー(テレサ・ライト)、息子ロブだった。
  
ホーマーは[[航空母艦]]を撃沈された時に負った火傷が原因で、[[鉄]]製の[[義肢#義手|義手]]を装着している<ref>映画『我等の生涯の最良の年』7-8分</ref>。帰宅した彼は両親と妹、恋人ウィルマの歓迎を受けるが、母親は彼の義手を見て泣き出してしまう<ref>映画『我等の生涯の最良の年』14-15分</ref>。
 
アルはフレッド曰く「豪華なアパート住まい」で快適な生活を送っていた<ref>映画『我等の生涯の最良の年』35分</ref>。帰宅した彼は妻ミリーとすっかり成長した娘ペギー、息子ロブの歓迎を受ける<ref>映画『我等の生涯の最良の年』18分-21分</ref>。父親から[[日本刀]]をプレゼントされたロブは[[放射能]]が[[広島市|広島]]の人々に与えた影響について何か見たんじゃないかと尋ね、学校で[[原子力]]について勉強した時に「[[レーダー]]や[[ミサイル]]に原子力が結びついたら」[[悲劇]]になると[[物理学|物理]]の先生が言っていたと話す<ref>映画『我等の生涯の最良の年』24-25分</ref>。2人の子供が成長しているのに一抹の不安を感じたアルは発散のためにミリーとペギーを連れて[[ナイトクラブ]]に繰り出す<ref>映画『我等の生涯の最良の年』29-30分</ref>。
かつてソーダ水の売り子をしていたフレッド(ダナ・アンドリュース)を待っていたのは、息子の安否を常に気遣っていた父と母。だが、出征する20日前に結婚した妻マリー(ヴァージニア・メイヨ)の姿はなかった。夫の帰還を待ちきれずに家を出た彼女は、ナイト・クラブで働いているらしい。
 
いくつもの[[勲章]]を胸に下げるフレッドは戦時中は[[アメリカ陸軍航空軍]]の[[大尉]]を務めていた<ref>映画『我等の生涯の最良の年』2分-5分</ref>。出征前は[[ドラッグストア]]で{{仮リンク|ソーダ・ジャーク|en|Soda jerk|label=ソーダ水の販売員}}として働き<ref>映画『我等の生涯の最良の年』61分-62分</ref>、飛行訓練中に出会った女性と出征する20日前に結婚していた<ref>映画『我等の生涯の最良の年』9分</ref>。帰宅した彼を息子の安否を気遣っていた父と母が出迎えたが、妻マリーの姿は無かった<ref>映画『我等の生涯の最良の年』22分</ref>。両親によると、夫の帰還を待ち切れずに家を出たマリーはナイトクラブで深夜まで働いているらしい<ref>映画『我等の生涯の最良の年』22-23分</ref>。
若い水兵ホーマー(ハロルド・ラッセル)は戦火の中で両肘から先を失っていた。鉄カギ付きの[[義肢|義手]]という痛ましい姿に、彼の両親と恋人ウィルマ(キャシー・オドネル)は激しいショックを受ける。
 
妻と娘を伴って二次会のためにブッチの酒場を訪れたアルはそこでホーマー、フレッドを見つけ、再会を祝して乾杯する<ref>映画『我等の生涯の最良の年』35分</ref>。アルとフレッドは酔い潰れてしまい、ミリーとペギーが2人をスティーブンソン家に連れ帰る<ref>映画『我等の生涯の最良の年』45-48分</ref>。夜が明けてペギーにマリーが住むアパートまで送ってもらったフレッドはその別れ際、夜遅くに戦争の悪夢にうなされていたのを寝かしつけてくれ、何も言わずに黙っていてくれた彼女の親切心に対して感謝の気持ちを伝える<ref>映画『我等の生涯の最良の年』64分-65分</ref>。アパートに入ったフレッドは歓声を上げて迎えるマリーと抱き合う<ref>映画『我等の生涯の最良の年』67分</ref>。
3人は社会や家庭で復帰するが、その姿は三者三様であった。やがてフレッドはアルの娘と、ホーマーは恋人と結ばれるのだった。
 
アルは銀行に復職すると同時に、小口融資担当の副頭取に昇進する<ref>映画『我等の生涯の最良の年』76-77分</ref>。ホーマーは障害に引け目を感じて両親を避け、ウィルマが示す以前と変わらぬ愛情も哀れみと受け取り、心を閉ざしてしまう<ref>映画『我等の生涯の最良の年』82-87分</ref>。フレッドを見たドラッグストアの従業員は「[[退役軍人]]に仕事を取られる」と危機感を募らせる<ref>映画『我等の生涯の最良の年』73分</ref>。彼はより良い待遇の仕事を探していたが、思うようにはいかない。就職の口が見つかる前に貯金を使い果たしてしまい、結局は妻をなだめるためにドラッグストアに復職することを決める<ref>映画『我等の生涯の最良の年』91-92分</ref>。
== キャスト ==
* アル - [[フレデリック・マーチ]]
* ミリー - [[マーナ・ロイ]]
* フレッド - [[ダナ・アンドリュース]]
* ペギー - [[テレサ・ライト]]
* マリー - [[ヴァージニア・メイヨ]]
* ホーマー - [[ハロルド・ラッセル]]
 
ドラッグストアの[[香水]]売り場の販売員となったフレッドは買い物に来たペギーを昼食に誘い、その別れ際に彼女に強引にキスをする<ref>映画『我等の生涯の最良の年』101分-103分</ref>。フレッドを愛するペギーはフレッド夫妻を夜食会に誘ってマリーの顔を見ることで気持ちを切り替えようとするが<ref>映画『我等の生涯の最良の年』109分-110分</ref>、マリーと話をして彼女が戦地から帰還して収入が減り、すっかり陰気になってしまったフレッドとの結婚を後悔していることを知る<ref>映画『我等の生涯の最良の年』118分</ref>。マリーを嫌い、愛し合っていない二人を別れさせると両親の前で宣言したペギーに、ミリーは娘から「完璧な夫婦」と見られている自分達も結婚生活の中でこれまでに同様の問題を抱えながら、克服してきたことを打ち明ける<ref>映画『我等の生涯の最良の年』121-123分</ref>。ブッチのバーでアルに呼び出され、娘と別れてほしいと迫られたフレッドは彼の頼みを聞き入れて店内の[[公衆電話|電話ボックス]]に行き、ペギーに絶交を申し入れる[[電話]]を掛けるが、二人の関係はこの一件でギクシャクしてしまう<ref>映画『我等の生涯の最良の年』125-129分</ref>。
=== ギャラリー ===
 
ドラッグストアに来店したホーマーに「そんな犠牲を払う必要は無かった」「彼ら([[大日本帝国|日本]]や[[ナチス・ドイツ|ナチス]])は[[共産主義]]を絶滅出来たんだ。もし[[アメリカ合衆国|アメリカ]]が参戦しなかったら」などと言い掛かりをつける嫌味な客に憤慨したフレッドはその客をガラスカウンターに殴り倒したことで解雇されてしまう<ref>映画『我等の生涯の最良の年』133-135分</ref>。謝るホーマーに、フレッドはウィルマに直ぐにでも会って結婚を申し込めと勧め、二人の恋仲を進展させようとする<ref>映画『我等の生涯の最良の年』136-137分</ref>。
 
ある晩にホーマーに会いに来たウィルマは避けられているのであれば、忘れるために明日の朝にもブーンシティを離れた方がいいと彼女の両親から迫られていることを伝えるが、ホーマーは彼女が町を離れるのを止めようとしない<ref>映画『我等の生涯の最良の年』140-141分</ref>。一緒になるとどんなに大変な暮らしになるかを聞かされてもウィルマの意志は揺るがず、ついにホーマーも彼女に対する正直な思いを告白する<ref>映画『我等の生涯の最良の年』143-146分</ref>。
 
職探しから帰宅したフレッドはマリーがある退役軍人の男と一緒にいるのを目撃した後、彼女から離婚を言い渡されてしまう<ref>映画『我等の生涯の最良の年』148-150分</ref>。フレッドの父親パットは町から離れようとする息子に考えを改めるよう説得を試みるものの、失敗に終わる<ref>映画『我等の生涯の最良の年』151-152分</ref>。フレッドが去った後にパットは妻のホーテンスを呼び、息子が残していった[[ジミー・ドーリットル]]より送られた[[殊勲飛行十字章]]の授与について記された「最も困難な状況において示した任務への忠誠心と高度な技術と冷静さ」を称える賞状の文章を読み上げる<ref>映画『我等の生涯の最良の年』153-154分</ref>。目的地を決めぬまま[[飛行場]]に到着したフレッドは待機する間、「{{仮リンク|航空機の墓場|en|Aircraft boneyard}}」をさまよう<ref>映画『我等の生涯の最良の年』153-156分</ref>。[[B-17 (航空機)|B-17]]の先端部分に入った後に過去の激戦を思い出して[[フラッシュバック (心理現象)|フラッシュバック]]状態に陥るが、作業員の男が彼に声を掛けて現実に引き戻す<ref>映画『我等の生涯の最良の年』156-157分</ref>。作業員の男から解体された後に[[プレハブ工法|プレハブ建築]]の材料になると聞いたフレッドは自分を雇ってくれと頼み込む<ref>映画『我等の生涯の最良の年』158-159分</ref>。
 
最後の[[シーン]]では人々がホーマーとウィルマの結婚式のためにパリッシュ家に集まっている<ref>映画『我等の生涯の最良の年』160分</ref>。新郎新婦が誓いの言葉を交わす間、フレッドとペギーは互いに見つめ合う<ref>映画『我等の生涯の最良の年』164-166分</ref>。終了した後、フレッドは人々が新郎新婦の周りに集まっている横を通ってペギーのもとに行き、彼女にキスをする。キスの後にフレッドは一人前の稼ぎになるまで何年掛かるか分からないし、最初は厳しい生活を送ることになるかもしれないが、それでもいいのかと尋ねる。ペギーは無言で微笑み、フレッドにキスをするのだった<ref>映画『我等の生涯の最良の年』167-168分</ref>。
 
== 製作 ==
=== 脚本執筆 ===
{{仮リンク|フランシス・ハワード (女優)|en|Frances Howard (actress)|label=フランシス・ゴールドウィン}}は[[タイム (雑誌)|タイム]]誌が[[1944年]]8月7日号で除隊兵士について取り上げた「国内ニュース」の中の「帰還」と題された記事に何度も目を通し、注目した。彼女は夫で[[映画プロデューサー|プロデューサー]]の[[サミュエル・ゴールドウィン]]に帰郷した兵士達をテーマにした[[ドラマ]]を製作すべきだと言い続け、しまいには彼も「絶対にそんなもんは作らないぞ」と宣言してしまった<ref>[[#バーグ(1990年)|バーグ(1990年)]] pp.219-220</ref>。ところが、実際にはサミュエル・ゴールドウィンはその後に[[マッキンレー・カンター]]に兵士が帰還した第二次世界大戦後の映画の構想を話している。ゴールドウィンはカーターにタイムの記事を見せ、「あなた自身の経験から語るべきだと思う」物語を自由に展開させてほしいと依頼した<ref>[[#バーグ(1990年)|バーグ(1990年)]] pp.220-221</ref>。報酬として20000[[アメリカ合衆国ドル|ドル]]が提示され、1944年9月8日にカーターは契約書にサインした<ref>[[#バーグ(1990年)|バーグ(1990年)]] p.221</ref>。カーターが執筆した物語''『Glory for Me』''の脚本用の梗概は[[1945年]]1月に作成された<ref>[[#バーグ(1990年)|バーグ(1990年)]] p.226</ref>。
 
しかし、1945年8月14日にこの''『Glory for Me』''の脚色をするという契約に署名した{{仮リンク|ロバート・E・シャーウッド|en|Robert E. Sherwood}}は来年の春か秋には時代遅れのテーマになっているかもしれないし、神経症をすべての帰還兵につきもののように描けば「かなりの不満」さえ起こるかもしれないとしてあまり乗り気では無く、すぐに企画の中止を進言した<ref>[[#バーグ(1990年)|バーグ(1990年)]] pp.243-244</ref>。9月4日にゴールドウィンから送られた彼の強い決意を示す次の内容の[[電報]](一部抜粋)がこのシャーウッドの考えを改めさせることになった<ref>[[#バーグ(1990年)|バーグ(1990年)]] pp.244-245</ref>。
{{cquote|''・・・私が6か月前よりももっと自信を強くしているのは、あのテーマは今よりも一年後の方が更に時節に合うと思うからだ。・・・市民の側から物語を見るというあなたのやり方は正しいし、言われるようにアメリカらしいユーモアを全体にちりばめれば、この作品はあなたの仕事の中でも特に優れたものとなることは間違いない。私が作りたいのは心を打つ感動的な物語だ。こちらであなたがおっしゃったことを聞いて、皆が適切な情熱を持ち続ければ、この映画は年間のベスト作品になると確信した。''}}
ゴールドウィンから「ハリウッド的な映画にしなくてはいけないと思わないでくれ。それよりも、もっとシンプルで真実味のあるものを作りたい」と言われたシャーウッドは数ヶ月かけて物語を練り上げ、[[1946年]]4月9日に脚本を完成させた<ref>[[#バーグ(1990年)|バーグ(1990年)]] pp.251-252</ref>。
 
=== 映画撮影 ===
映画の撮影は1946年4月15日に開始され、[[オンタリオ国際空港]]や{{仮リンク|ロサンゼルス郡樹木園・植物園|en|Los Angeles County Arboretum and Botanic Garden}}を含めた様々な場所で[[ロケーション撮影|ロケ]]が実施された<ref name="Orriss121">[[#Orriss(1985年)|Orriss(1985年)]] p.121</ref>。撮影には100日以上が費やされたが、ゴールドウィンはシャーウッドの脚本通りにどんな[[台詞]]でも一切変更せずに映画を撮るように要求し、[[映画監督|監督]]の[[ウィリアム・ワイラー]]も渋々ながらこれに従った<ref>[[#バーグ(1990年)|バーグ(1990年)]] p.253</ref>。
 
ゴールドウィンはハロルド・ラッセルを演技教室に入学させたが、「実に自然な演技をこなす」彼の持ち味を失わせたくなかったワイラーは辞めるように言った<ref name="バーグ255">[[#バーグ(1990年)|バーグ(1990年)]] p.255</ref>。
 
いつものように今回も音楽を担当するようにゴールドウィンから頼まれた[[アルフレッド・ニューマン]]だったが、既に[[20世紀フォックス]]の音楽部門責任者に就任していた彼は自分の代わりに[[ヒューゴー・フリードホーファー]]を推薦したため、フリードホーファーが起用されることになった<ref>[[#バーグ(1990年)|バーグ(1990年)]] p.256</ref>。
 
映画の中で妻のある身のフレッドがブッチのバーで出会ったアルからペギーと付き合うのを止めてくれと言われ、そう言うと約束してペギーに電話を掛けに電話ボックスへ向かうシーンがある。フレッドが出て行った後、バーに入って来たホーマーとブッチが『{{仮リンク|チョップスティックス (曲)|en|Chopsticks (music)|label=チョップスティックス}}』を連弾する。ここで[[グレッグ・トーランド]]は[[パンフォーカス|ディープ・フォーカス]]を使用して画面の左上にフレッドを、右下にピアノを囲む3人を見せた。これによってアルに[[焦点 (光学)|焦点]]を合わせながらも、画面のアルと同じように遠くの姿を見ているだけでフレッドがペギーに電話を掛けているのだと観客にも分かるようにした<ref>[[#バーグ(1990年)|バーグ(1990年)]] p.258</ref>。{{仮リンク|シカゴ・リーダー|en|Chicago Reader}}紙の{{仮リンク|デイヴ・ケール|en|Dave Kehr}}はこのディープ・フォーカスの使用を今日の観客にも注目されている技術だとしている<ref>{{Cite web|author=Jonathan Rosenbaum|url=http://www.chicagoreader.com/chicago/the-best-years-of-our-lives/Film?oid=1149878|title=The Best Years of Our Lives|publisher=Chicagoreader.com|language=英語|accessdate=2015年2月1日}}</ref>。
 
フレッド・デリーが残骸となった爆撃機に座っているシーンでは、戦闘任務を思い出す彼の主観的状態を[[シミュレーション|シミュレート]]する「[[写真レンズ#ズームレンズ|ズームレンズ]]」効果が使用された<ref>[[#Orriss(1985年)|Orriss(1985年)]] pp.121-122</ref>。この[[カリフォルニア州]][[オンタリオ (カリフォルニア州)|オンタリオ]]にある飛行機の「墓場」はワイラーが撮影準備の段階で見付けてシャーウッドに話し、シャーウッドが素晴らしいシーンが出来ると気付いてロケ地に選ばれたものであり、大戦末期に作られて実戦に間に合わなかった戦闘機の残骸が並んでいた<ref name="バーグ255" />。
 
また、第二次世界大戦に従軍して戦地から帰還したワイラーは[[プラザホテル]]で妻と再会した際に、長い廊下の向こうとこちらから自分と妻が近付いていった時のことを覚えており、その光景をアルがミリーと2人の子供が待つアパートに帰って来るシーンで再現した<ref>[[#バーグ(1990年)|バーグ(1990年)]] pp.258-259</ref>。[[テレサ・ライト]]は[[マーナ・ロイ]]に「あの場面には真実の愛があった」からこそあれほど感動的なシーンになったと思うと話しているが、ロイ自身も後年に「二人はベッドに入るのが待ち切れないくらいだったのよ」と迫真の演技の秘訣を語っている<ref>[[#バーグ(1990年)|バーグ(1990年)]] p.259</ref>。
 
== キャスト ==
<gallery>
File:Myrna Loy in Best Years of Our Lives trailer closeup.jpg‎|マーナ・ロイ
image:Fredric_March_in_Best_Years_of_Our_Lives_trailer.jpg|フレデリック・マーチ
File:Fredric_March_in_Best_Years_of_Our_Lives_trailer2.jpg|フレドリック・マーチ
image:Myrna_Loy_in_Best_Years_of_Our_Lives_trailer.jpg‎|マーナ・ロイ
imageFile:Dana_Andrews_in_Best_Years_of_Our_Lives_trailerDana Andrews in Best Years of Our Lives trailer2.jpg|ダナ・アンドリュース‎
imageFile:Teresa_Wright_in_Best_Years_of_Our_Lives_trailerTeresa_Wright_in_Best_Years_of_Our_Lives_trailer2.jpg‎|テレサ・ライト
imageFile:Virginia_Mayo_in_Best_Years_of_Our_Lives_trailerVirginia Mayo in Best Years of Our Lives trailer2.jpg‎|ヴァージニア・メイヨ
File:Harold Russell still.jpg‎|ハロルド・ラッセル
</gallery>
主な[[キャスト]]と、その右に役を演じた[[俳優]]を記載する<ref>{{Cite web|url=http://www.imdb.com/title/tt0036868/fullcredits?ref_=tt_cl_sm#cast|title=The Best Years of Our Lives (1946) - Full Cast & Crew|publisher=IMDb.com|language=英語|accessdate=2015年1月27日}}</ref>。
 
* ミリー・スティーブンソン - [[マーナ・ロイ]]
== スタッフ ==
* アル・スティーブンソン - [[フレドリック・マーチ]]
* 監督:[[ウィリアム・ワイラー]]
* フレッド・デリー - [[ダナ・アンドリュース]]
* 製作指揮:[[サミュエル・ゴールドウィン]]
* ペギー・スティーブンソン - [[テレサ・ライト]]
* マリー・デリー - [[ヴァージニア・メイヨ]]
* ウィルマ・キャメロン - [[キャシー・オドネル]]
* ブッチ・エングル - [[ホーギー・カーマイケル]]
* ホーマー・パリッシュ - [[ハロルド・ラッセル]]
* ホーテンス・デリー - {{仮リンク|グラディス・ジョージ|en|Gladys George}}
* パット・デリー - {{仮リンク|ローマン・ボーネン|en|Roman Bohnen}}
* ミルトン氏 - {{仮リンク|レイ・コリンズ (俳優)|en|Ray Collins (actor)|label=レイ・コリンズ}}
* パリッシュ夫人 - {{仮リンク|ミナ・ゴンベル|en|Minna Gombell}}
* パリッシュ氏 - {{仮リンク|ウォルター・ボールドウィン|en|Walter Baldwin}}
* クリフ - {{仮リンク|スティーヴ・コクラン|en|Steve Cochran}}
* キャメロン夫人 - {{仮リンク|ドロシー・アダムズ|en|Dorothy Adams}}
 
サミュエル・ゴールドウィンは[[スクリーン]]の「理想的な妻」の地位を確立したマーナ・ロイが[[端役]]を引き受けてくれるか心配したが、[[脚本]]を読んでいた彼女は役を演じるのを即座に了承した。[[クレジットタイトル|クレジット]]では俳優として最も名の売れている彼女の名前が一番最初に表示されることになった<ref>[[#バーグ(1990年)|バーグ(1990年)]] pp.250-251</ref>。
== 配給 ==
*[[RKO]]
*:現在は[[メトロ・ゴールドウィン・メイヤー]]が版権を保有、米国では正規版DVD発売中、日本では正規版は未発売。
 
監督のウィリアム・ワイラーは[[心的外傷後ストレス障害]]を発症したホーマー・パリッシュの役に、演技経験無しの素人のハロルド・ラッセルが適役だと見込み、起用することに決めた<ref name="Orriss121" />。ワイラーが以前に観た[[ドキュメンタリー|ドキュメンタリー映画]]に両手を失った若い[[軍曹]]として登場した彼は「[[トリニトロトルエン|TNT]]の[[火薬]]を扱っている時に事故が起こり、両手を手首から6[[インチ]]のところまで失ってしまったために」鉄の[義手を付け、肩に付けた器具とゴムバンドでそれを動かしていた<ref>[[#バーグ(1990年)|バーグ(1990年)]] p.251</ref>。
== 主な受賞歴 ==
=== アカデミー賞 ===
;受賞
:[[アカデミー作品賞]]
:[[アカデミー監督賞]]:[[ウィリアム・ワイラー]]
:[[アカデミー主演男優賞]]:[[フレデリック・マーチ]]
:[[アカデミー助演男優賞]]:[[ハロルド・ラッセル]]
:[[アカデミー脚色賞]]:[[ロバート・E・シャーウッド]]
:[[アカデミー作曲賞|アカデミードラマ・コメディ音楽賞]]:[[ヒューゴー・フリードホーファー]]
:[[アカデミー編集賞]]:[[ダニエル・マンデル]]
:[[アカデミー名誉賞]]:ハロルド・ラッセル
 
上記のキャストの他にのちに[[カントリー・ミュージック]]の歌い手として有名になる{{仮リンク|テネシー・アーニー・フォード|en|Tennessee Ernie Ford}}も[[クレジットタイトル]]無しの「田舎者の[[歌手|シンガー]]」として出演している。のちに映画監督となる[[ブレイク・エドワーズ]]もクレジットタイトル無しの「[[伍長]]」として一瞬登場する。
;ノミネート
:[[アカデミー録音賞]]:[[ゴードン・ソーヤー]]([[サミュエル・ゴールドウィン・スタジオ|サミュエル・ゴールドウィン・スタジオ・サウンド部]])
 
== 公開 ==
=== ゴールデングローブ賞 ===
[[アメリカ映画協会 (業界団体)|アメリカ映画製作配給業者協会]](MPPDA)は「[[ヘイズ・コード]]」の基準からアルが[[げっぷ|ゲップ]]をするシーンやペギーの「結婚を壊してやる」という発言、ミリーとアルの情熱的なキスのシーンなどはけしからんから削れとの要求を続けた。ゴールドウィンは一切変更しないと譲らず、最終的にこの異議を引っ込めてしまった<ref>[[#バーグ(1990年)|バーグ(1990年)]] pp.260-261</ref>。
:最優秀劇作品賞
:ノンプロフェショナル演技特別賞(ハロルド・ラッセル)
 
通常の映画の2倍の長さになってしまったため、[[試写会]]のたびに誰かが犠牲に出来そうな映像作品における[[カット#映像作品における「カット」|カット]]を指摘した。上演回数が普通の半分に減ってしまうというデメリットがありながら、ゴールドウィンは長いまま映画を公開することを決断した<ref>[[#バーグ(1990年)|バーグ(1990年)]] pp.261-262</ref>。
=== 英国アカデミー賞 ===
:最優秀作品賞
 
映画の前評判を盛り上げるために40万ドルもの費用を掛けた宣伝が行われた。[[ヴァージニア・メイヨ]]とテレサ・ライトは[[ライフ (雑誌)|ライフ]]誌の表紙を飾り、[[ホーギー・カーマイケル]]は自分の[[ラジオ番組]]で映画を紹介し、マーナ・ロイと[[フレドリック・マーチ|フレデリック・マーチ]]と[[ダナ・アンドリュース]]のもとには各ラジオ番組からの出演要請が殺到した<ref name="バーグ263">[[#バーグ(1990年)|バーグ(1990年)]] p.263</ref>。
=== ナショナル・ボード・オブ・レビュー ===
:最優秀監督賞
 
1946年11月20日、入場料の40%を獲得するというゴールドウィンにとってこれまでに無い好条件で[[映画配給|配給契約]]を結ぶことの出来た[[ニューヨーク]]の{{仮リンク|アスター劇場|en|Astor Theatre}}でまず封切られ<ref name="バーグ263" />、[[ロサンゼルス]]では[[クリスマス]]の週に公開された<ref>[[#バーグ(1990年)|バーグ(1990年)]] p.264</ref>。
=== ニューヨーク映画批評家協会賞 ===
:作品賞
:[[ニューヨーク映画批評家協会賞 監督賞|監督賞]]
 
公開後1年で1000万ドル近くの[[収益]]を上げた。[[トーキー]]になってからの映画の[[興行成績]]としては『[[風と共に去りぬ (映画)|風と共に去りぬ]]』に次ぐ第2位を記録している<ref name="バーグ265">[[#バーグ(1990年)|バーグ(1990年)]] p.265</ref>。
== 備考 ==
 
*ホーマー役を演じたハロルド・ラッセルは実際に戦争で両手を失った負傷兵である。関係者が、本職の俳優でない彼に気を使って演技を教えようとしたところ、それを知ったワイラーが激怒したという。彼の自然なままの姿を求めたためである。
[[ロンドン]]では1947年春に公開され、一年間満員の状態が続き、22週目に突入しても2週目の客の動員数を維持していたほどの勢いだった。この状況は[[シドニー]]から[[リオデジャネイロ]]の世界各地においても共通していた<ref name="バーグ266">[[#バーグ(1990年)|バーグ(1990年)]] p.266</ref>。
 
== 評価 ==
=== 批評 ===
公開時のみならず、後世の多くの[[映画評論|映画評論家]]からも肯定的な評価を獲得している。
* [[ニューヨーク・タイムズ]]紙の{{仮リンク|ボズリー・クラウザー|en|Bosley Crowther}}:「最上級の[[エンターテインメント]]のみならず、心の安らぎと人間らしい考え方の礎として全面的かつ積極的に認めることの出来る」数少ない映画であり、人々が映画に設定した「最も美しく感動的な人間の不屈の精神の実証」の基準を見事にクリアし、「[[グランドホテル方式|アンサンブル・キャスト]]はこの今年一番の[[ハリウッド]]映画に最高の演技をもたらした」と書いている<ref>{{Cite web|author=Bosley Crowther|url=http://movies2.nytimes.com/mem/movies/review.html?res=EE05E7DF1739E561BC4A51DFB767838D659EDE|title=THE BEST YEARS OF OUR LIVES|publisher=[[ニューヨーク・タイムズ|NYTimes.com]]|language=英語|date=1946年11月22日|accessdate=2015年1月27日}}</ref>。
* [[ジェームズ・エイジー]]:「ここ何年かにアメリカの撮影所で製作された映画としては、数少ない感動的で勇気付けられる好ましい作品の一つ」であると認め、それから2週間後には「嬉しいことにこれだけは声を大にして言える。この映画は才能ある人々が集まって機会を与えられたら、あるいはチャンスを切り開いたらどんな成果が生まれるかを如実に示している」と書いている<ref name="バーグ265" />。
* [[淀川長治]]:「本当は最悪の年なんですね。この3家庭を通して、アメリカを見事に見せたんです。うまいんですねぇ。ことに、ハロルド・ラッセルがいいんです。ラッセルは、これで[[アカデミー賞]]の[[アカデミー助演男優賞|助演男優賞]]と[[アカデミー名誉賞|特別賞]]を獲ったんですけど、素人なんですね。本当に両手が無いんです。本当に傷痍軍人なんです」と書いている<ref>[[#淀川(1998年)|淀川(1998年)]] p.22</ref>。
* [[シカゴ・サンタイムズ]]紙の[[ロジャー・イーバート|ロジャー・エバート]]:2007年に彼の「素晴らしい映画リスト」に加えた。60年以上後から見ても現代的に感じられ、ハリウッドがその後に意図的に避けた問題を単刀直入に取り上げていると評している<ref>{{Cite web|author=[[ロジャー・イーバート|Roger Ebert]]|url=http://www.rogerebert.com/reviews/the-best-years-of-our-lives-1946|title=The Best Years of Our Lives (1946)|publisher=[[シカゴ・サンタイムズ|Rogerebert.com]]|language=英語|date=2007年12月29日|accessdate=2015年1月27日}}</ref>。
* シカゴ・リーダー紙の{{仮リンク|ジョナサン・ローゼンバウム|en|Jonathan Rosenbaum}}:「最も感動的かつ最も心に深く刻み込まれた」—「今までに観たことのある、帰還兵を取り上げたアメリカ映画の中でも最高の出来だ」と書いている<ref>{{Cite web|author=Jonathan Rosenbaum|url=http://www.chicagoreader.com/chicago/the-best-years-of-our-lives/Film?oid=1051339|title=The Best Years of Our Lives|publisher=Chicagoreader.com|language=英語|accessdate=2015年1月27日}}</ref>。
* {{仮リンク|タイム・アウト (雑誌)|en|Time Out (magazine)|label=タイム・アウト}}誌の{{仮リンク|ジェフ・アンドリュー|en|Geoff Andrew}}:「ワイラーの最高の映画の一つ」と評し、「おそらく長過ぎるのだが、帰国した退役軍人のこの扱いが難しく、時折耐え難い窮状の考察だ」と書いている<ref>{{Cite web|author=Geoff Andrew|url=http://www.timeout.com/london/film/the-best-years-of-our-lives|title=The Best Years of Our Lives|publisher=chicagoreader.com|language=英語|accessdate=2015年1月27日}}</ref>。
* [[バラエティ (アメリカ合衆国の雑誌)|バラエティ]]誌の{{仮リンク|エイベル・グリーン|en|Abel Green}}:「我等の生涯の最良の映画の一つ」<ref>{{Cite web|author=Abel Green|url=http://variety.com/1946/film/reviews/best-years-of-our-lives-1200414825/|title=Review: ‘Best Years of Our Lives’|publisher=[[バラエティ (アメリカ合衆国の雑誌)|Variety.com]]|language=英語|date=1946年11月26日|accessdate=2015年1月27日}}</ref>。
 
公開後何か月かはゴールドウィンのデスクに称賛やお祝いの手紙が溢れた。その中でも彼をとりわけ感激させたのが一時は言葉の行き違いで関係が悪化していた長女ルースから送られた「生涯で最良の涙を流してきました。お父様を愛し、この上無く誇りに思っている娘ルースより」という手紙だった<ref>[[#バーグ(1990年)|バーグ(1990年)]] pp.265-266</ref>。
 
=== 映画賞の受賞・ノミネート ===
[[第9回アカデミー賞]]の10部門に[[ノミネート]]され、うち9部門で受賞した<ref>{{Cite web|url=http://www.imdb.com/event/ev0000003/1947?ref_=ttawd_ev_1|title=Academy Awards, USA Awards for 1947 Oscar|publisher=IMDb.com|language=英語|accessdate=2015年1月29日}}</ref>。[[RKO]]社長邸で開催された祝賀会ではことあるごとに衝突していたゴールドウィンとワイラーは互いに挨拶もせずに一晩中それぞれの隅に引っ込んでいたが、フランシス夫人はゴールドウィンが「まるでクリスマスに欲しい物を全部貰った子供のように」はしゃいでいたのを記憶している。夫妻が帰宅した後、フランシス夫人はゴールドウィンがいつまでも2階に上がってくる気配が無いので何処に居るのか家中を探し回ったところ、暗いリビングルームで[[アカデミー作品賞]]と[[アービング・G・タルバーグ賞|アービング・G・タルバーグ記念賞]]を片手ずつ持ち、腰を下ろし、うつむいて声も無く泣いていた彼を発見したという<ref name="バーグ281" />。
 
ハロルド・ラッセルは素人俳優で本物の退役軍人であったにも関わらず、1つの役で2つの[[オスカー像]]を獲得した最初の俳優となった<ref>[[#バーグ(1990年)|バーグ(1990年)]] p.280</ref>。その受賞理由として挙げられたのが「出演を通して仲間の退役軍人に希望と勇気を与えた」というものだった<ref>[[#バーグ(1990年)|バーグ(1990年)]] p.279</ref>。彼は後年に妻の医療費を工面するために、[[アカデミー助演男優賞]]のオスカー像を[[競売]]にかけ、60500ドルで売却した<ref>{{Cite web|author=Ronald Bergan|url=http://www.theguardian.com/news/2002/feb/06/guardianobituaries|title=Harold Russell|publisher=[[ガーディアン|TheGuardian.com]]|language=英語|accessdate=2015年1月29日}}</ref>。
 
{{仮リンク|ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞 (1946年)|en|National Board of Review Awards 1946|label=第18回ナショナル・ボード・オブ・レビュー}}の2部門<ref>{{Cite web|url=http://www.imdb.com/event/ev0000464/1946?ref_=ttawd_ev_7|title=National Board of Review, USA Awards for 1946 NBR Award|publisher=IMDb.com|language=英語|accessdate=2015年1月29日}}</ref>、[[第4回ゴールデングローブ賞]]の2部門<ref>{{Cite web|url=http://www.imdb.com/event/ev0000292/1947?ref_=ttawd_ev_2|title=Golden Globes, USA Awards for 1947|publisher=IMDb.com|language=英語|accessdate=2015年1月29日}}</ref>、{{仮リンク|第1回ボディル賞|en|1st Bodil Awards}}の1部門<ref>{{Cite web|url=http://www.imdb.com/event/ev0000107/1948?ref_=ttawd_ev_4|title=Bodil Awards for 1948 Bodil|publisher=IMDb.com|language=英語|accessdate=2015年1月29日}}</ref>、第3回シネマ脚本家協会賞の1部門<ref>{{Cite web|url=http://www.imdb.com/event/ev0000179/1948?ref_=ttawd_ev_5|title=Cinema Writers Circle Awards, Spain Awards for 1948 CEC Award|publisher=IMDb.com|language=英語|accessdate=2015年1月29日}}</ref>、{{仮リンク|第1回英国アカデミー賞|en|1st British Academy Film Awards}}の1部門<ref>{{Cite web|url=http://www.imdb.com/event/ev0000123/1948?ref_=ttawd_ev_3|title=BAFTA Awards for 1948 BAFTA Film Award|publisher=IMDb.com|language=英語|accessdate=2015年1月29日}}</ref>の賞も獲得している。また、1989年には作品は[[アメリカ国立フィルム登録簿]]に登録された<ref>{{Cite web|url=http://www.imdb.com/event/ev0000468/1989?ref_=ttawd_ev_8|title=National Film Preservation Board, USA Awards for 1989 National Film Registry|publisher=IMDb.com|language=英語|accessdate=2015年1月29日}}</ref>。
 
{| class="wikitable"
|-
! 選考年
! 映画賞
! 部門
! 候補者
! 結果
|-
| rowspan="5" | [[1946年]]
| rowspan="2" | {{仮リンク|ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞 (1946年)|en|National Board of Review Awards 1946|label=第18回ナショナル・ボード・オブ・レビュー}}
| {{仮リンク|ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞 トップ10作品|en|National Board of Review: Top Ten Films|label=トップ10作品}}
| ''『The Best Years of Our Lives』''(『我等の生涯の最良の年』)
| rowspan="4" {{Won}}
|-
| [[ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞 監督賞|監督賞]]
| [[ウィリアム・ワイラー]]
|-
| rowspan="3" | [[第12回ニューヨーク映画批評家協会賞]]
| [[ニューヨーク映画批評家協会賞|作品賞]]
| ''『The Best Years of Our Lives』''
|-
| [[ニューヨーク映画批評家協会賞 監督賞|監督賞]]
| ウィリアム・ワイラー
|-
| [[ニューヨーク映画批評家協会賞 主演男優賞|主演男優賞]]
| [[フレドリック・マーチ|フレデリック・マーチ]]
| rowspan="1" {{Nom}}
|-
| rowspan="12" | [[1947年]]
| rowspan="2" | [[第4回ゴールデングローブ賞]]
| ドラマ映画作品賞
| ''『The Best Years of Our Lives』''
| rowspan="9" {{Won}}
|-
| ノンプロフェショナル演技特別賞
| [[ハロルド・ラッセル]]
|-
| rowspan="10" | [[第19回アカデミー賞]]
| [[アカデミー作品賞|作品賞]]
| {{仮リンク|サミュエル・ゴールドウィン・プロダクションズ|en|Samuel Goldwyn Productions}}
|-
| [[アカデミー監督賞|監督賞]]
| ウィリアム・ワイラー
|-
| [[アカデミー主演男優賞|主演男優賞]]
| フレデリック・マーチ
|-
| [[アカデミー脚色賞|脚色賞]]
| {{仮リンク|ロバート・E・シャーウッド|en|Robert E. Sherwood}}
|-
| [[アカデミー助演男優賞|助演男優賞]]
| ハロルド・ラッセル
|-
| [[アカデミー編集賞|編集賞]]
| [[ダニエル・マンデル]]
|-
| [[アカデミー作曲賞|ドラマ・コメディ音楽賞]]
| [[ヒューゴー・フリードホーファー]]
|-
| [[アカデミー録音賞|録音賞]]
| [[ゴードン・E・ソーヤー]]
| rowspan="1" {{Nom}}
|-
| [[アカデミー名誉賞|名誉賞]]
| ハロルド・ラッセル
| rowspan="6" {{Won}}
|-
| [[アービング・G・タルバーグ賞|記念賞]]
| [[サミュエル・ゴールドウィン]]
|-
| rowspan="2" | [[1948年]]
| {{仮リンク|第1回ボディル賞|en|1st Bodil Awards}}
| rowspan="1" | {{仮リンク|ボディル賞 アメリカ作品賞|en|Bodil Award for Best American Film|label=アメリカ作品賞}}
| ウィリアム・ワイラー
|-
| 第3回シネマ脚本家協会賞(スペイン)
| rowspan="1" | 外国語作品賞
| ''『The Best Years of Our Lives』''
|-
| rowspan="1" | [[1949年]]
| rowspan="1" | {{仮リンク|第1回英国アカデミー賞|en|1st British Academy Film Awards}}
| [[英国アカデミー賞 作品賞|総合作品賞]]
| ウィリアム・ワイラー
|-
| rowspan="1" | [[1989年]]
| rowspan="1" | {{仮リンク|合衆国国立フィルム保存委員会|en|National Film Preservation Board}}
| [[アメリカ国立フィルム登録簿]]
| ''『The Best Years of Our Lives』''
|}
 
上記の他にも、[[フランス]]の「ヴィクトワール」や[[オランダ]]の「フィルムプリズン」のようないくつかの国際的な賞も受賞している<ref name="バーグ266" />。
 
2015年2月1日時点では[[インターネット・ムービー・データベース]]の33638人のユーザーの評価では10点満点のうち平均8.2点で採点されている<ref>{{cite web|url=http://www.imdb.com/title/tt0036868/?ref_=ttfc_fc_tt|title=The Best Years of Our Lives (1946)|publisher=IMDb.com|language=英語|accessdate=2015年2月1日}}</ref>。また、[[Rotten Tomatoes|ロッテン・トマト]]の10171人のユーザーの評価では5点満点のうち平均4.2点で採点され、この映画が好きと回答しているのが92%に達している<ref>{{cite web|url=http://www.rottentomatoes.com/m/best_years_of_our_lives/|title=THE BEST YEARS OF OUR LIVES (1946)|publisher=[[Rotten Tomatoes|RottenTomatoes.com]]|language=英語|accessdate=2015年2月1日}}</ref>。
 
=== ランキング入り ===
「[[AFIアメリカ映画100年シリーズ]]」の『[[アメリカ映画ベスト100]]』では37位に<ref>{{cite web|url=http://www.afi.com/100years/movies.aspx|title=AFI's 100 GREATEST AMERICAN MOVIES OF ALL TIME|publisher=[[アメリカン・フィルム・インスティチュート|AFI.com]]|language=英語|accessdate=2015年1月29日}}</ref>、『[[感動の映画ベスト100|感動のアメリカ映画ベスト100]]』では11位に<ref>{{cite web|url=http://www.afi.com/100years/cheers.aspx|title=AFI'S 100 YEARS...100 CHEERS|publisher=AFI.com|language=英語|accessdate=2015年1月29日}}</ref>、『[[アメリカ映画ベスト100(10周年エディション)|10周年版アメリカ映画ベスト100]]』では37位に<ref>{{cite web|url=http://www.afi.com/100years/movies10.aspx|title=AFI'S 100 YEARS...100 MOVIES — 10TH ANNIVERSARY EDITION|publisher=AFI.com|language=英語|accessdate=2015年1月29日}}</ref>それぞれランクインしている。
 
{| class="wikitable"
|-
! 選考年
! 団体
! 部門
! 対象
! 順位
|-
| [[1998年]]
| rowspan="4" | [[アメリカン・フィルム・インスティチュート|アメリカ映画協会]]
| [[アメリカ映画ベスト100]]
| ''『The Best Years of Our Lives』''
| 37位
|-
| [[2006年]]
| [[感動の映画ベスト100|感動のアメリカ映画ベスト100]]
| ''『The Best Years of Our Lives』''
| 11位
|-
| [[2007年]]
| [[アメリカ映画ベスト100(10周年エディション)|10周年版アメリカ映画ベスト100]]
| ''『The Best Years of Our Lives』''
| 37位
|}
Spring in Park Lane
[[イギリス]]では歴代6位(1位『[[風と共に去りぬ (映画)|風と共に去りぬ]]』、2位『[[サウンド・オブ・ミュージック (映画)|サウンド・オブ・ミュージック]]』、3位『[[白雪姫 (アニメ映画)|白雪姫]]』、4位『[[スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望|スター・ウォーズ]]』、5位『{{仮リンク|スプリング・イン・パーク・レイン|en|Spring in Park Lane}}』)の推定観客動員数2040万人を記録している<ref>{{Cite web|author=Nick James|url=http://www.reelclassics.com/Articles/General/bfi100ultimate-article.htm|title=Everything you knew about cinema is probably wrong;BFI releases definitive list of of the top 100 most-seen films|publisher=Reelclassics.com|language=英語|date=2004年11月27日|accessdate=2015年1月31日}}</ref>。
 
== 脚注 ==
{{Reflist}}
 
== 参考文献 ==
* {{Cite book|author=David Thomson|date=1993年|title=Showman: Life of David O. Selznick|publisher=Abacus; New版|language=英語|isbn=978-0349105239|ref=Thomson(1993年)}}
* {{Cite book|和書|author=A.スコット・バーグ (著), 吉田利子 (翻訳)|date=1990年|title=虹を掴んだ男―サミュエル・ゴールドウィン〈下〉|publisher=[[文藝春秋]]|isbn=978-4163445205|ref=バーグ(1990年)}}
* {{Cite book|author=Bruce W. Orriss|date=1985年|title=When Hollywood Ruled the Skies (The Aviation film classics of World War II)|publisher=Aero Assoc; 1st edition|language=英語|isbn=978-0961308803|ref=Orriss(1985年)}}
* {{Cite book|和書|author=[[淀川長治]]|date=1998年|title=ぼくが天国でもみたいアメリカ映画100―好きで好きでたまらない名作名優|publisher=[[講談社]]|isbn=978-4062563154|ref=淀川(1998年)}}
 
== 外部リンク ==
{{Commonscat|The Best Years of Our Lives}}
* {{Movielink|allcinema|26238|我等の生涯の最良の年}}
* {{Movielink|kinejun|10083|我等の生涯の最良の年}}
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{{英国アカデミー賞作品賞 1947-1960}}
{{DEFAULTSORT:われらのしようかいのさいりようのとし}}
 
[[Category:1946年の映画]]
[[Category:白黒映画]]
[[Category:アカデミー賞作品賞受賞作]]
[[Category:アメリカ合衆国のドラマ映画]]
110 ⟶ 295行目:
[[Category:ウィリアム・ワイラーの監督映画]]
[[Category:サミュエル・ゴールドウィン・プロダクションズの作品]]
[[Category:白黒映画]]