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{{Otheruses||他の「'''馬良'''」という名の人物|馬良 (曖昧さ回避)}}
'''馬 良'''(ば りょう、[[187年]] - [[222年]])は、[[中国]][[後漢]]末期から[[三国時代 (中国)|三国時代]]の政治家。[[劉備]]に仕えた。[[字]]は'''季常'''。[[荊州]][[襄陽]]郡宜城県([[湖北省]][[宜城市]])の人。弟[[馬謖]]。他の兄弟は三人(いづれも名は不詳)。子馬秉。『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』[[蜀漢|蜀]]志に伝がある。
 
== 生涯 ==
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字の「[[季]]」から馬良は四男だと推測されるが、弟の馬謖以外の兄弟の氏名や事蹟については不明である。
 
[[劉備]][[荊州]]を支配するようになると、馬良は馬謖と共に従事にり立てられた。劉備は後に[[益州]]に入ったが、馬謖を随行させ、馬良荊州に留め置いた。後に[[諸葛亮]]も劉備に随行するため荊州を離れたが、その時も馬良は引き続き荊州にとどまり留守を守った。
 
馬良は雒城が陥落を占領したとの知らせを聞き、諸葛亮に祝いの手紙を送っている。この時、馬良は諸葛亮を「尊兄」と呼んでいる。[[裴松之]]は、馬良と諸葛亮は義兄弟の契りを結んでいたと推測している。
 
また、[[孫権]]の元に使者としてくことになった時は、諸葛亮に取り成しの手紙を書くよう願い出た。このため諸葛亮は、試しに馬良自身紹介文を書かせてみることにした。馬良がこの時に作成した草稿は、史書に掲載されている。孫権は馬良を厚遇したという。
 
[[220年]]、劉備が皇帝に即位した時、馬良は[[侍中]]となった。[[222年]]、劉備が[[呉 (三国)|呉]]と戦いで荊州に出兵した時([[夷陵の戦い]])、馬良もこれに従軍し、[[武陵]]蛮を帰服させ呉征伐に協力させる任務を任された(「先主伝」)。馬良よく任務をこなしたため、異民族の頭領達は皆、蜀の官位と印綬を与えられた。劉備が呉の[[陸遜]]に敗れると、馬良も殺害された。
 
死後、劉備は子の馬秉[[騎都尉]]とした。
 
[[陳寿]]は馬良のことを、誠実で蜀の善き家臣と賞賛している。
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雒城で苦戦する劉備と[[ホウ統|龐統]]の元に訪れる諸葛亮からの使者となり、諸葛亮が天文を見たところ凶兆があったことを知らせる。しかし龐統は、この忠告を諸葛亮の嫉妬によるものと見做し、黙殺する。まもなく龐統は落鳳坡で戦死し、諸葛亮が代わりに劉備の軍師役を務めるため荊州を離れることになると、[[関羽]]が荊州の留守を守ることになる。馬良は文官の一人として関羽を補佐している。
 
関羽が[[樊城]]を守る[[曹仁]]を攻めた時、敵将[[ホウ徳|龐徳]]の毒矢を左腕に受ける。毒骨まで達しており、[[華佗]]の外科手術を受けることになるが、関羽は馬良と囲碁をし、肉をかじり談笑しながら平然と手術を受けたとなっている。呉の[[呂蒙]]・[[陸遜]]に背後から襲撃され関羽が窮地に追い込まれると、伊籍と共に[[成都]]への援軍の使者となる。
 
夷陵の戦いにおいては、戦況が長期化する中で、劉備の布陣に疑問を持ち、成都にとどまっている諸葛亮に意見を求めることを勧め、劉備の命令により諸葛亮への使者として赴く。諸葛亮劉備の布陣に致命的な欠陥があることを見つけ、馬良を急いで劉備の陣に戻らせたが間に合わず、劉備は陸遜に大敗してしまう。また史実とは異なり、夷陵の戦いでは戦死せず、諸葛亮が南蛮征伐に赴いた頃、まもなく死去したことにされている。死去時、馬謖が諸葛亮の元を訪れ、兄の死去を知らせる場面がある。
 
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