「セルジューク・東ローマ戦争」の版間の差分

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''' セルジューク・東ローマ戦争 '''(セルジューク・ひがしローマせんそう)は、[[セルジューク朝]]、および後継国家の[[ルーム・セルジューク朝]]と[[東ローマ帝国]]、および[[ニカイア帝国]]との間に起こった戦争である。
 
[[マラズギルトの戦い]]での東ローマ帝国の大敗後、[[アナトリア半島|アナトリア]]への[[テュルク]]民族の流入が続き、アナトリアのテュルク化が進行した。[[コムネノス朝]]とルーム・セルジュークは一進一退の攻防を繰り広げたが、[[オスマン帝国]]によってルーム・セルジュークが滅ぼされ、この戦争は終わった。
 
== セルジュークのアナトリア進出 ==
[[1045年]]に[[東ローマ帝国]]は[[アルメニア]]を征服した。これによって東ローマ帝国は、すでに
イランを支配下におさめていた[[セルジューク朝]]と領土を接することとなり、直接セルジュークの侵攻をうける事になる。東ローマ皇帝[[コンスタンティノス10世ドゥーカス]]は経費削減のため、グルジアとアルメニアの兵士からなる防衛隊を解散させてしまった。こうして守備力がなくなったアルメニアは徹底的にセルジューク朝の攻撃を受ける事になり、[[1064年]]に[[アルプ・アルスラーン]]によってアルメニアは完全に征服された。東ローマ皇帝[[ロマノス4世ディオゲネス]]は大勢の傭兵を引き連れてセルジューク討伐に向かったがマラズギルトの戦いで大敗し捕虜になってしまう。これでアナトリアの防衛も崩壊し、さらに内紛で動揺していた東ローマはアナトリアをセルジュークに占領されてしまった
 
== コムネノス家とセルジュークの戦い ==
1081年に皇帝に即位した[[アレクシオス1世コムネノス]]は西欧に傭兵の提供を求めた。これは[[十字軍]]襲来と言う予期せぬ結果をもたらしたが、ともかくアレクシオスは十字軍とともにセルジュークと戦い、[[ニカイア]]を取り戻した。さらに1118年に即位した[[ヨハネス2世コムネノス]]は黒海やエーゲ海沿岸の領土を取り戻した。(その中にはコムネノス家の領地だったカスタモンも含まれていた)ヨハネス2世はその後、シリアで事故死し、そのあとを[[マヌエル1世コムネノス]]がついだ。即位当初はセルジュークを服従させていたマヌエルだったが、セルジュークが[[神聖ローマ帝国]]と好を通じたため、マヌエルは1176年にセルジューク討伐を開始したがミュリオケファロン峠でセルジューク軍の待ち伏せ攻撃を受け、敗北した。この敗戦で意気消沈したマヌエルはセルジュークと和約を結び、間もなく死去してしまった。
 
== 主な戦い ==
* バイブルトの戦い
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* [[ミュリオケファロンの戦い]]
* メアンドロス川の戦い
 
== 参考文献 ==
*エドワード・ギボン 著 「ローマ帝国衰亡史」
*エリザベス・ハラム 編集 「十字軍大全」
 
== 外部リンク ==
[http://www.roman-emperors.org/mannycom.htm]