=== 陸軍航空学校下志津分校 ===
{{Main|所沢陸軍飛行学校#陸軍航空学校}}
臨時航空術練習委員および教育団の教育指導と並行して1919年(大正8年)年4月、陸軍航空の現業軍政と専門教育を統轄する[[陸軍航空部]]が設立された<ref>{{アジア歴史資料センター|A03021185100|御署名原本・大正八年・勅令第百十一号・陸軍航空部令(国立公文書館)}}</ref>。また同時に所沢に'''[[所沢陸軍飛行学校#陸軍航空学校|陸軍航空学校]]'''が置かれた<ref>軍令 陸第8号 [http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/{{NDLDC|2954120/3}} 『官報』第2006号、1919年4月14日]</ref>。陸軍航空学校条例([[軍令]]陸第8号)により同校の学生は甲種、乙種、丙種にわけられ、そのうち'''乙種学生'''は偵察、観測写真、通信等の修習をする各兵科尉官であった。教育団の帰国後も陸軍航空部は教育実施の立地を重視し、また所沢陸軍飛行場は広さが十分ではないことから翌[[1920年]](大正9年)にも下志津で空中偵察、空中写真、射撃観測、無線通信の教育を行った。この当時より同地に置かれた施設は陸軍航空学校の「分校」と呼ばれていたことが確認できる<ref>{{アジア歴史資料センター|C08021591600|大正9年 公文備考 巻39 航空3 (防衛省防衛研究所)}}</ref>。ただし、この「分校」は暫定的かつ非公式なものであり、陸軍省ではあらためて分校設置への準備を進めた<ref>{{アジア歴史資料センター|C03011288300|大日記乙輯大正9年(防衛省防衛研究所)}}</ref>。
[[1921年]](大正10年)3月、陸軍航空学校条例改正(軍令陸第1号)の施行により正式に分校の設置が可能となり<ref>軍令 陸軍航空学校条例中改正 [http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/{{NDLDC|2954692/1}} 『官報』第2577号、1921年3月8日]</ref>、同年4月、千葉県印旛郡千代田村(現在の[[四街道市]]中央部)に'''陸軍航空学校下志津分校'''が設置された<ref>{{アジア歴史資料センター|C02030975900|大日記甲輯 大正10年(防衛省防衛研究所)}}</ref><ref>彙報 陸軍航空学校下志津、明野両分校設置 [http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/{{NDLDC|2954723/9}} 『官報』第2608号、1921年4月14日]</ref>。分校では条例改正で新たに規定された'''偵察学生'''、および'''特種学生'''の教育が行われた。
設置当初、分校は印旛郡の仮校舎で運用されていたが<ref>{{アジア歴史資料センター|C03011540100|大日記乙輯大正10年(防衛省防衛研究所)}}</ref>、用地を取得し<ref>土地収用公告。[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/{{NDLDC|2954867/9}} 『官報』第2752号、1921年10月3日]</ref>新校舎を建築<ref>{{アジア歴史資料センター|C03011604300|大日記乙輯大正10年(防衛省防衛研究所)}}</ref><ref>{{アジア歴史資料センター|C03011667200|大日記乙輯大正11年(防衛省防衛研究所)}}</ref><ref>{{アジア歴史資料センター|C03011652700|大日記乙輯大正11年(防衛省防衛研究所)}}</ref>したのち[[1923年]](大正12年)1月、近隣の[[千葉郡]][[都村 (千葉県)|都村]](現在の[[千葉市]][[若葉区]]北西部)に移転した<ref>彙報 陸軍航空学校下志津分校移転 [http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/{{NDLDC|2955266/9}} 『官報』第3145号、1923年1月27日]</ref>。
=== 下志津陸軍飛行学校 ===
下志津分校は地理的な条件から砲兵との連携が容易であり<ref group="*">陸軍野戦砲兵射撃学校のほか、砲兵連隊の兵営(当初は野砲兵第18連隊、のちに野戦重砲兵第4連隊が移駐)が下志津陸軍演習場に隣接していた。</ref>、射撃観測などに関して所沢より教育と研究に適している利点があった。その反面、本校の校長が遠く離れた分校を指揮監督する不便と、陸軍航空部と分校間の諸系統業務もすべて編制に従い本校を経由しなければならない煩雑さがあった。こうした事情により陸軍航空部は分校を独立させ直接管理下に置くことを決定した<ref>{{アジア歴史資料センター|C03022645700|密大日記 大正13年5冊の内1冊(防衛省防衛研究所)}}</ref>。
1924年(大正13年)5月、従来の陸軍航空学校条例は廃止され、陸軍飛行学校令(軍令第6号)が制定された<ref>軍令 陸第6号 [http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/{{NDLDC|2955666/2}} 『官報』第3518号、1924年5月17日]</ref>。これによって学校令第1条により「学生ニ航空ニ関スル諸般ノ学術ヲ修得セシメ(中略)且航空ニ関スル兵器器材ノ研究試験ヲ行フ所」と定められた陸軍飛行学校は所沢、下志津、明野([[三重県]][[度会郡]])の3校となり、陸軍航空学校下志津分校は'''下志津陸軍飛行学校'''として陸軍航空部直轄の独立した学校に再編されたのである。前述の学校令第3条により下志津陸軍飛行は戦術、偵察、偵察操縦、通信、および写真等に関する諸学術の教育と調査および研究を行い、ならびにこれらに関する器材の調査、研究および試験も担当することが定められた。学校の編制は陸軍航空部本部長に隷属<ref group="*">隷属(れいぞく)とは固有の上級者の指揮監督下に入ること。単に指揮系統だけでなく、統御、経理、衛生などの全般におよぶ。『帝国陸軍編制総覧 第一巻』61頁</ref>する校長のもと、本部、教育部と学生のみであった<ref>『陸軍航空史』76頁</ref>。
下志津陸軍飛行学校に入校する被教育者の分類および諸条件は次のとおり定められた(1924年5月時点)。
*;偵察学生
:偵察に関する学術を修習する者。各[[兵科]]の[[尉官]]。
:修学期間等は陸軍大臣が定める。1924年陸達第17号では修学期間は4か月から5か月。通常毎年2回入校<ref>達 陸達第17号 [http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/{{NDLDC|2955666/5}} 『官報』第3518号、1924年5月17日]</ref>。
*;戦術学生
:戦術を修習する者。各兵科の[[大尉]]または[[中尉]]。
:臨時に各兵科[[佐官]]以下を召集<ref group="*">この場合の召集とは[[召集|在郷軍人を軍隊に召致すること]]ではなく、既に軍務についている軍人を特別教育のため指名することである。以下同じ。</ref>し、必要な教育を行うことも可(学校令第5条)。
[[1925年]](大正14年)5月、独立した兵科として'''[[航空兵|航空兵科]]'''が誕生し、陸軍航空部は'''[[陸軍航空本部]]'''に昇格した。同時に陸軍飛行学校令も改正された(軍令陸第7号)<ref>軍令 陸第7号 [http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/{{NDLDC|2958372/3}} 『官報』第1900号、1933年5月5日]</ref>。下志津陸軍飛行学校校長は新たに陸軍航空本部長に隷属することとなり、編制は本部、教育部、研究部、材料廠<ref group="*">材料廠(ざいりょうしょう)とは、器材の修理、補給、管理などを行う部署のこと。</ref>、教導隊および学生となった。
*;偵察学生
:臨時に各兵科(憲兵科を除く)将校以下を召集し、必要な教育を行うことも可(学校令第5条)。
[[1933年]]([[昭和]]8年)5月、陸軍飛行学校令が改正され(軍令第10号)同年8月施行された<ref>軍令 陸第10号 [http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/{{NDLDC|2958372/3}} 『官報』第1900号、1933年5月5日]</ref>。この改正により、下志津陸軍飛行学校の任務には従来の偵察、偵察操縦、戦術、通信、写真のほか、航空'''航法'''に関する諸学術の教育と調査および研究と兵器、器材の調査、研究および試験が加わった。これにともない特種学生は通信、写真、航法等に関する学術を修習する航空兵科尉官、同准士官および下士官と条件が改められた。学校の編制は校長のほか新たに幹事を置き、本部、教育部、研究部、材料廠、教導隊、および学生であった。
[[1935年]](昭和10年)8月、下志津陸軍飛行学校令(軍令陸第11号)が施行された<ref>軍令 陸第11号 [http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/{{NDLDC|2959051/4}} 『官報』第2572号、1935年7月30日]</ref>。同令の第1条で下志津陸軍飛行学校は偵察飛行隊に必要な諸学術を教育し、かつ必要な兵器と器材の研究および試験を行う所と定められた。また被教育者には従来の将校、准士官および下士官からなる学生のほかに'''下士官候補者'''が加わった。担任する教育と研究および試験内容は偵察、偵察操縦、戦術、戦技、通信、写真等となり、航法に関しては[[所沢陸軍飛行学校]]に移管された。
下志津陸軍飛行学校令により、同校の被教育者は次のとおり定められた(1935年8月時点)。
:臨時に各兵科(憲兵科を除く)将校以下を召集し、必要な教育を行うことも可(学校令第4条)。
[[1936年]](昭和11年)、同県海上郡高神村(1937年2月、銚子市に編入)に分飛行場を建設し、下志津陸軍飛行学校銚子分教場<ref group="*">分教場は1940年に「分教所」と名称が改められる。</ref>が設置された<ref>{{アジア歴史資料センター|C01006001900|大日記甲輯昭和11年(防衛省防衛研究所)}}</ref><ref>{{アジア歴史資料センター|C01007784900|來翰綴(陸密)第1部昭和15年(防衛省防衛研究所)}}</ref>。銚子分教場では航空通信に従事する[[幹部候補生 (日本軍)|幹部候補生]]の教育も行われた<ref>{{アジア歴史資料センター|C07090794000|支受大日記(普)其3 1/2 第3号 12冊の内 昭和13.3.15~4.1005(防衛省防衛研究所)}}</ref>。[[1937年]](昭和12年)2月、下志津陸軍飛行学校が置かれている千葉県千葉郡都村が千葉市に併合されたことにともない、同校の所在地名は千葉市川野辺となった<ref>彙報 下志津陸軍飛行学校所在地名変更 [http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/{{NDLDC|2959541/6}} 『官報』第3058号、1937年3月16日]</ref>。[[File:Ki-46 100sitei.jpg|thumb|250px|下志津陸軍飛行学校保有の一〇〇式司令部偵察機]]
[[1938年]](昭和13年)7月、下志津陸軍飛行学校令改正(軍令陸第11号)が施行された<ref>軍令 陸第11号 [http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/{{NDLDC|2959051/4}} 『官報』第3447号、1938年7月1日]</ref>。この改正で同校の被教育者から特種学生のうち通信に関する教育を受ける者と、下士官候補者全部が除外された。また同時に航空関係の通信および火器に関する教育、調査、研究、試験を行うことを主目的とした'''[[仙台陸軍飛行学校|水戸陸軍飛行学校]]'''が新設された<ref>{{アジア歴史資料センター|A03022214700|御署名原本・昭和十三年・勅令第四六九号・水戸陸軍飛行学校令(第七百四十八号ヲ以テ本号中改正)(国立公文書館)}}</ref><ref>勅令 第469号 [http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/{{NDLDC|2959938/2}} 『官報』第3447号、1938年7月1日]</ref>。これにともない従来行われてきた通信関係の教育、および幹部候補生の教育は水戸陸軍飛行学校に移管された<ref>{{アジア歴史資料センター|C01004401200|昭和13年「密大日記」第1冊(防衛省防衛研究所)}}</ref>。水戸陸軍飛行学校は設立当初、下志津陸軍飛行学校内に置かれたが<ref>彙報 水戸陸軍飛行学校設置 [http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/{{NDLDC|2959952/7}} 『官報』第3461号、1938年7月18日]</ref>、翌[[1939年]](昭和14年)3月、[[茨城県]][[那珂郡]][[前渡村 (茨城県)|前渡村]](現在の[[ひたちなか市]])に移転した<ref>彙報 水戸陸軍飛行学校事務開始 [http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/{{NDLDC|2960168/12}} 『官報』第3674号、1939年4月7日]</ref>。
1938年12月、天皇に直隷し航空兵科専門の教育を統轄する[[陸軍航空総監部]]が設立され、下志津陸軍飛行学校はそれまでの航空本部長から航空総監隷下の学校となった<ref>軍令 陸第21号 [http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/{{NDLDC|2960072/1}} 『官報』第3580号、1938年12月9日]</ref>。[[1941年]](昭和16年)3月、同県印旛郡八街町(現在の八街市)に飛行場を建設し、下志津陸軍飛行学校八街分教所<ref group="*">それまで「分教場」としていたものは、1940年8月の学校令改正第6条により「分教所」と定められた。</ref>が置かれた<ref>{{アジア歴史資料センター|C07091628500|昭和15年「陸支普大日記第19号」(防衛省防衛研究所)}}</ref><ref>{{アジア歴史資料センター|C08030006800|昭和16年 陸(支満)密綴 第5研究所(防衛省防衛研究所)}}</ref><ref>{{アジア歴史資料センター|C01007823800|陸密綴昭和18年(防衛省防衛研究所)}}</ref>。分教所はほかに[[1944年]](昭和19年)3月時点で広島県広島市[[吉島 (広島市)|吉島]]にも置かれていたことが確認できる<ref>{{アジア歴史資料センター|C12120501300|陸密綴 昭和18年~19年(防衛省防衛研究所)}}</ref>。
[[1943年]](昭和18年)10月、下志津陸軍飛行学校令改正(軍令陸第7号)により、すでに通信関係の教育が行われなくなっていた特種学生は'''写真学生'''に名称を改められた<ref>軍令 陸第7号 [http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/{{NDLDC|2961364/4}} 『官報』第4859号、1943年3月26日]</ref>。
===下志津教導飛行師団===
1945年(昭和20年)1月、「振武特別攻撃隊」30隊(第18~第47)、同年3月にはさらに69隊(第48~第116)の編成が発令され、そのうち第23振武隊と第62振武隊が下志津教導飛行師団から抽出されている<ref>『陸軍航空の軍備と運用 (3)』402-403頁</ref>。
同年4月、本土決戦に備え航空諸軍を統率する天皇直隷の'''[[航空総軍]]'''司令部が編成され<ref>『本土防空作戦』503-507頁</ref><ref>『陸軍軍戦備』482頁</ref>、航空総監部は閉鎖された<ref>軍令 陸第10号 [http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/{{NDLDC|2961972/1}} 『官報』第5472号、1945年4月14日]</ref><ref>{{アジア歴史資料センター|A04017733700|御署名原本・昭和二十年・勅令第二二九号・陸軍航空総監部医務部令ノ適用停止ニ関スル件(国立公文書館)}}</ref>。これにともない下志津教導飛行師団は航空総軍司令官の隷下に入り、太平洋方面の哨戒行動を実施した<ref>『本土防空作戦』515-517頁</ref><ref>『陸軍航空の軍備と運用 (3)』474頁</ref>。同年4月18日、「下志津陸軍飛行学校令外四軍令廃止ノ件」(軍令陸第11号)の施行により下志津陸軍飛行学校令が廃止となり、閉鎖中であった同校は正式に廃止された<ref>軍令 陸第11号 [http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/{{NDLDC|2961972/1}} 『官報』第5472号、1945年4月14日]</ref>。
=== 教導飛行師団 第5教導飛行隊 ===
|