「愛知県立守山高等学校」の版間の差分

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要出典
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== 沿革 ==
* [[1974年]]([[昭和]]49年) - 開校。
愛知で初めてブレザーにネクタイを採用した県立高校。1,2,3年縦割りホームルームといった独自性も打ち出し開校前から話題となる。そのため意欲的な生徒、教職員が集まった。また地元である守山区、高蔵寺地区の中学は中学校長の肝いりで優秀な生徒を送り込んだという。また所在地が名古屋市内ということで守山区、北区、東区、千種区、中区といった中央線沿線から意識の高い生徒が集まった。この結果、当初の卒業生は大学進学率八割超、医学部医学科を含む国立大学、東京六大学等に順調に卒業生を送り出し、県立普通科校としてまずまずの評価を得た。転機は開校五年目に訪れる。四期生までは募集人員が8クラス360人であったのだが五期生のそれから10クラス450名に増員。同時期に高蔵寺、春日井地区に県立高校新設ラッシュが始まる。「守高は生徒指導が厳しい」との評判から地元の優秀な生徒が敬遠しだし高蔵寺高校等に流れてしまう。こういった新入生レベルが低下した結果いわゆる落ちこぼれ生徒が出てきた。またこの時代は新卒教師の大量採用も重なり教師レベルも急激に低下した時代であり、これを嫌ってベテラン教師が次第に転出していく。こういった要因から授業レベルも低下していった。そして1981年5月、日頃の生活指導の厳しさに対する不満が爆発、全校規模での授業ボイコットに発展する「守山高校事件」が起きる。この紛争は新聞、週刊誌などマスコミに大々的に取り上げられた。愛知式管理教育として社会問題化し校長が辞職する騒ぎとなった。その後ますます受験生に敬遠され続け今では募集定員割れ、中退者多数、大学進学者稀少、開校当初の面影は全くなくなっている。
 
== 部活動 ==