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佐藤家には政治家と直接のコネはなく、政界進出には大きな壁があった。そこで佐藤は実の妹を[[大分県議会]][[議長]]の[[荒金啓治]]の子息に嫁がせた。そのコネを活かし、[[1951年]]、荒金の地盤を引き継ぎ、県議会議員に初当選した。以後3期12年務めた後、国政進出を決意する。
大物議員に人脈のある[[岩崎貢]]の片腕となり、[[第31回衆議院議員総選挙|19671963年の総選挙]]で、[[大分県第2区 (中選挙区)|旧大分2区]]より[[自由民主党]]公認で立候補したが落選。[[第31回衆議院議員総選挙|1967年の総選挙]]で、再び自由民主党公認を受けトップで初当選を果たす(当選同期に[[山下元利]]・[[増岡博之]]・[[加藤六月]]・[[塩川正十郎]]・[[河野洋平]]・[[中尾栄一]]・[[藤波孝生]]・[[武藤嘉文]]・[[坂本三十次]]・[[塩谷一夫]]・[[山口敏夫]]・[[水野清]]など)。以降連続当選8回。自民党では[[村上勇]]→[[水田三喜男]]→[[中曽根康弘]]派に属する。[[第2次中曽根内閣 (第2次改造)|第2次中曽根内閣第2次改造内閣]]で[[郵政大臣]]に就任。[[1990年]]の総選挙で落選する。[[1995年]]4月、[[勲一等瑞宝章]]を受章。[[1996年]]の総選挙では比例九州ブロックで出馬するも名簿下位のため落選し政界引退。2000年4月25日、[[多発性骨髄腫]]により死去。[[享年]]80。
59歳で[[宝塚歌劇団]]元[[星組]]トップスターの[[那智わたる]]と結婚する。また、[[読売新聞社]]会長[[渡邉恒雄]]と親しく、渡邉が選挙の応援演説をしたこともあった。
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